Scribble at 2024-11-28 08:20:43 Last modified: 2024-11-28 10:31:48
かなり「リベラル」と思えるようなことを書いているにもかかわらず、僕が自分の立場を「保守」と言っている理由の一つは、このまえ亡くなった西尾幹二氏も言うように、確かに「自由」の観念に対する強い疑念という事情がある。
もちろん、奴隷制は不当であり、差別も不当である。人がもっていてしかるべき選択の余地を不当に取り上げられるという「不随意」からの解放という意味での自由は、僕も大切だと思う。しかし、放埒という意味での自由は、僕は認められない。なぜなら、これは簡単に言えば「持てるものの理屈」にすぎないからだ。信仰の自由を主張してきたのは、主にキリスト教圏の寛容主義を説く人々であり、つまるところ安楽椅子で「おまえたちの好きにさせてやろう」という理屈にすぎない。こんなものは、ロックだろうと誰だろうとわれわれ現代の哲学者はまともな理屈やスタンスとして許容できはしない。多くの植民地で生活していた人々や各地の奴隷は、白人に向かって「好きにキリスト教を信仰すれば良い」と発言できるような状況ではなかったことが明白な理由だ。
なお、しばしばこれら二つの自由を「~からの自由」そして「~への自由」などと対比する場合があるし、"freedom vs. liberty" の違いとして解説する場合があるけれど、これらはどちらも間違いだと思う。そもそも "freedom" に不随意や束縛とのかかわりで言われるような自由という意味はないのであって、それは寧ろ "liberation" という語があるように "liberty" の方である。"free" という言葉は、「無料」の意味でも使われていることからも分かるように、ここで議論しているような自由の観念について使うには、あまりにもニュアンスが曖昧であり、語源学的にも自由を意味する的確な言葉とは思えない。寧ろ、過去の文書において "free," "freedom" の言葉が出てきた事例においては、それを(僕らがここで議論している意味での)自由として理解することが誤解や誤訳になりうるとすら言えると思う。したがって、僕はここでの自由という意味で "free," "freedom" という言葉は、自分のプラグマティクス(言葉の運用、用字)としては使わない方針だ。
先の信仰という話に関連させると、「信仰の freedom」とはすなわち白人が言う「俺の『好きに』信仰する」ことであって、この場合の "freedom" は「自分の好み」という意味でしかない。権利なんかとは何の関係もないのだ。