2022年09月27日に初出の投稿

Last modified: 2022-09-27

僕は SNS やソーシャル・メディアについて、とりわけ学術研究の道具としては全く信用していない。これは以前から書いていることだからご承知だと思うが、その理由は非常に単純である。ソーシャル・メディアは、文字通り「ログ」であって「歴史」ではないからだ。

確かに、ポストモダン音頭を踊る人々が高額で派手な装丁のクズみたいな出版物でいちいち指摘するまでもなく、歴史をまとめあげて表現するのは一つの暴力である。そして、それに対してログは脈絡のないデータの集積にすぎないとされ、そういうデータの山に埋没したり、そこから自由に取り出せる多種多様な事実や解釈の総覧的な様子こそが人の叡智の姿であるという。僕に言わせれば、それは色々なところに落ちているドングリを色々な猿の集団が拾って食べているという、そんな様子を眺めているだけのシニカルな態度に過ぎない。そういう「ヒューマン」な人々こそが、人の叡智や努力の蓄積を何も信用していないキチガイ科学者みたいな連中なのだ。

自分自身の動機や目的や経緯に応じて歴史をまとめあげて説明することが、一つの勝手な事実の縮約であり「暴力」であるというのは、当たり前のことである。そして、学術研究者という身分を負う者には、それを為す権威と責任があるという擬製を維持するのが望ましいというプランに、僕はコミットしている。寧ろ、そういう暴力の応酬なり対抗の結果によって広く認められた知見に信頼を寄せるしかないであろう。それとも、こういう営為を暴力だと呼んでラベリングしたペーパーを書けばハーヴァードの教授になれる、文芸批評とか社会学とかいうイージーな学問では、多数決で数学の定理を定めたり、体当たり取材の特異な芸能人に仮説の検証を任せておけばいいとでも言うのか。

そもそも、「ログ」などと公正で中立な記録の空間みたいなものがどこかにあるという空想そのものが、あまりにも子供じみている。そんなものが Google や DuckDuckGo のサーバとは違うどこかに、誰でもどんなデータにでも好きなときに好きなだけアクセスできるかのように〈実在〉しているという前提こそ、僕らのような哲学者、いやそれ以前にプロのネット・ベンチャーの部長に言わせれば、子供の空想でしかないと断言できる。そんな都合のよい記録データのアーカイブなんて、どこにもないのだ。

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