Scribble at 2021-08-26 17:18:14 Last modified: 2021-08-27 15:15:37

最初に書いてから、後で何度か書き足したのだが、スティーヴン・コヴィーの『7つの習慣』は、読めば読むほど重要箇所での奇妙な翻訳が目につく。たとえば、次の箇所もおかしい。

「ある男性が友達の葬儀で隣に座っていた人に質問をした。『彼は、いくら遺したんだい』訊かれた相手は答えた。『何も持たずに逝っちゃったよ』」(p.129)

原文はこうである。

"One man asked another on the death of a mutual friend, 'How much did he leave?' His friend responded, 'He left it all.'"

スティーヴンは何度か本書を書き直しているらしいので、もしかすると翻訳は別の原文を元にしているのかもしれないが、もし上記を訳したのであれば、これは "leave" という単語のニュアンスを考慮しないといけない。そこをないがしろにしたまま(直訳としては正しいが)日本語にしてしまっては、読む側にニュアンスが伝わらず、寧ろ「いくら遺したのか」と質問されて「何も持ってない」などと当たり前の返事を返した理由(具体的に幾ら遺したかなど問題ではない)が読む方に伝わらない。「持っていない」ことが重要なのではなく、「遺していった」ことが重要なのだ。

恐らく、こう訳したほうが良いのではないか。「共通の友達が亡くなったことについて、或る人がもう一人に訊ねた。『彼はどれくらい遺したんだ?』訊かれた相手は、こう答えた。『彼は、残せるものはすっかり遺していったよ。』」

次に、不適切と言うほどの問題はないが、第3の習慣を議論する冒頭で「しかるべきジャングル(right jungle)」という言い方が出てくる。スティーヴンは著者であるから「ジャングル」と書いても、それまでに喩え話として何度か出てきたジャングルのことだと分かっているだろうが、それほど頻繁に使われている比喩でもないから、読んでいる方は前のページでリーダーとマネジャーを対比するために使われたジャングルという比喩のことだと即座に思い出せない可能性がある。本書は専門のコンサルやセミナー事業を展開する会社があるくらいなのだし、何かもう少し工夫が必要だと思う。

それと余談だが、『7つの習慣』については「翻訳者」と称する人が何人もいるようだ(僕が知る限りだけでも、ジェームズ・スキナー、川西茂、宮崎伸治、黄木信、フランクリン・コヴィー・ジャパン)。名目だけの翻訳者なんて学術書でもよくあることだし、恩師の下訳を学生がするなんて山程の事例がある。でも、それとは違って『7つの習慣』には何パターンかの翻訳があるため、誰かが嘘を言ってるというよりも、異なる訳本を手掛けているのかもしれない。

よって、ここで紹介しているキングベアー出版から2011年に出た初版の第66刷を読む限りでしか翻訳の批評はできない。他の翻訳でお読みの方には、また違う訳文となっているかもしれないので、そちらについて僕は関知しないし、実際のところ興味はない。きちんと翻訳していればそれでいいだけのことだ。訳文として、たとえ誤訳でないとしても脈絡が不明確だったりニュアンスが分からない表現があれば、原文と照らし合わせるのが僕の読み方であり、これは学術研究の訓練を大学で受けた人間にとっては、ずり落ちてきたパンツを引っ張り上げるのと同じくらい自然な行動なのである。

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