Scribble at 2021-06-01 20:18:58 Last modified: 2021-06-01 20:30:34

非科学的なデタラメが実務家自身によってしつこく信奉されたり吹聴されている分野というのが幾つかあって、ジャーナリズム論とかコミュニケーション論は言うに及ばず、都市計画論や生理学や教育学や心理学もそういう分野に当たる。僕は、大阪教育大学教育学部の附属小学校から附属高等学校まで通って、毎年のように教員が試験的に実施する色々な「教育方法」とか「授業メソッド」とか「クラス運営論」のモルモットとして12年間を過ごした。こういう色々なアプローチには、もちろん成功や失敗がある。それでも、特に大きな問題とならなかったのは、生徒の大半が実質的に受験勉強を学校ではなく予備校でやっていたからだ。そういう状況でも、なんだかんだやりつつ東大や医大へ進学するくらいの生徒、そして予備校へ子供を行かせるだけの家計が維持できる家庭の子息を集めていたわけである。うちも、当時はそれなりにお金があった。

当時の教員らが、いわゆる "learning styles" の信者だったのかどうかは知らない。いまでこそ、これらは一部の教育学者と教員と教育行政の役人が〈子供の個性を重んじる健全で優しい人々〉という醜悪な自意識プレイの道具としてきたために、多くの専門家や実務家から非難の的になっているが、僕らが高校までを過ごした1970年代から1980年代にかけては、民青つまりは日教組の教員が国立の学校である僕の母校にも多くいて、授業を自習にしてデモに参加するような教員までいたのだから、それなりの数の教員が「生徒それぞれに合った方法がある」というスローガンを支える ersatz liberalism とも言うべき観念に振り回されていたと思う。

もちろん、特定の条件に応じて適した教え方なり学び方があるという仮説は、何らかの障害を負っている生徒に対しては妥当でありうる。仮に何らかの視覚情報を習得のうえで必要とする知識について、目が見えていない生徒に習得せよと要求するのは無理がある。恐らく、何らかの代替手段が求められても良いはずだ。また、学習障害のある生徒にも当てはまるかもしれない。しかし、これを幾らでも個人の特徴や性格や好き嫌いに適合させて、いくらでも多様化させられるという根拠はない(実際、そのように教師が勝手に生徒を「多様に」区別すること自体が差別になっている事例もある)。

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