Scribble at 2022-09-07 18:15:17 Last modified: 2022-09-07 18:17:14

うちは二人とも何だかんだ言いながらも本が好きなので、「汗牛充棟」という言葉が当てはまるほどの分量であるかどうかはともかく、もし引っ越すときは、業者の見積もりとして大半が書籍の運び賃として算定されることは確実だ。セドリ業者でもないのに部屋が一つ書籍を置くだけで埋まっている家なんて、そうないはずである。しかしこれでも、論文の多くは PDF で読んでいるし、ここ数年は大半の出版物を電子書籍として手に入れている。なので、20年くらい前、ちょうどアマゾンを利用し始めた頃に比べたら、本を買う量は格段に少なくなっている筈だ。でも、買い続けていることに変わりはないし、古本屋へ引き取ってもらう本が急に増えるわけでもなく、いまのところ微増という調子で部屋の空間を埋め続けている。

もちろん、こんなこと自体を目的に生きているわけでもないのだから、理想を言えば収納ケースに本を入れなくても済むていどに減らしたいとは思う。そのためには、当たり前だが読んで身に着けるなり重要だと思ったことを書き留めて、再び読めば何か新しい点に注目するかもしれないし、もっと大切なことに気付くのかもしれないが、そんな見込みの低い可能性のために本を持ち続けるわけにはいかず、そしてそういうことをして〈読み返す〉チャンスがある年齢でもない。いま手持ちの本を一通り読めば、もう過去に読んだ本を読み返す時間なんて残ってはいない。それよりも、そのときに読んで感じたり考えたことを使って成果を上げることの方が大切だ。なにも、これは学術論文を書くという意味だけではなく、たとえば選挙でバカを選ばないとか、仕事で愚かな判断をしないとか、優れた人物を正しく評価するとか、僕自身が〈善く生きる〉という意味でもいい。

そもそも、哲学を学ぶということが underdetermination に関する論文を読むためであるなどというのは、僕に言わせれば〈悪い意味のアカデミズム〉でしかない。だが他方で、アカデミズムをむやみに忌避しようとして「街角の哲学」だの philosophy for everyone だの何のと通俗的なパフォーマンスにうつつを抜かしていれば切実な人生の糧になるなどという話も、同じような錯覚であり、僕に言わせれば〈悪い意味の現場主義・現実主義〉である。ともかく、アカデミックな成果が学者のためだけにあり、市民のためには専用の通俗的な哲学があるなどというクソみたいな錯覚をまき散らしているのが、現今の三流物書きどもだ。こういう無能ども、それがハーヴァードの教授だろうと、あるいは何か慈善事業をやっている「いい人」だろうと、だまされてはいけない。バカは、自分と同じていどか自分よりもバカな人間を自分の懐に引きずり込もうとするものだ。

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