Scribble at 2026-06-02 14:31:19 Last modified: unmodified

このまえ出社してジュンク堂で色々な本棚を物色していたときに、あまりにも馬鹿げた本ばかりが並んでいたせいで、これはアマゾンで洋書を買った方がいいんじゃないかと思ったジャンルがある。このこと自体を暫く忘れていたのだが、今日の朝にアマゾンで中公文庫の古い(1970年代)本を物色していたときに、たまたま思い出した。

それは、「記号論」だ。

もちろん日本語で書かれた記号論の本は膨大な数があって、通俗的な本もあれば思想書に類する本もあるが、はっきり言えば専門書や研究書の類は非常に少ない。こう言っては失礼かもしれないが、日本で出版されている記号論の本の大多数は、「記号論入門」と題した通俗本か、あるいは「~の記号論」などという書名でサブカルを高尚な話題として飾り立てる道具に堕しているかのどちらかだ。そして、少なくともこれが流行していた1980年代から半世紀近くにわたって思想書の出版状況などを眺めてきたうえでの雑感として言わせてもらえば、少なくとも日本において記号論の知的インパクトは殆どない。更に辛辣なことを言うようだが、萌えキャラだろうと小学生の虐めであろうと AV 女優であろうと、それらを「記号である」と名指すだけでは不十分であり、社会科学や人文科学ではしばしば・・・いや、かなり頻繁にあることだが、単に身の回りの事象に名前を付けて individualization したり切り取るだけでは不十分である。それこそ、「記号論」という言語ゲームを様式美にしたがってプレイしているにすぎない。思想家のパントマイムや、自意識系のオタクがよくやる学者の猿真似でしかない。

文化的・社会的な事象や流行、あるいは日常のありふれた物事を対象にして、「〜の記号論」と銘打たれた論考は、1970年代から80年代のポストモダン全盛期からこのかた、大量に生産され出版されてきた。しかし、それらの殆どは「これは記号だ。これを記号として理解する僕ちゃんって、なんて感受性の高い思想家なんだろう!」という無能な学者や評論家の自意識プレイの道具に堕してしまった。そして、アニメのプロットやジャズのインプロヴィゼーションから包茎手術に至る、身の周りのどうでもいい事柄に新しい「意味」と呼ばれるレッテルを貼り直しているだけであり、それらの現象の固有のメカニズムや実態を何ら明らかにしていないという、(もはや「知的」という形容詞すら使うのが憚られるレベルの)空語や戯言の見本市に陥ってしまっている。

これは、社会運動にコミットしないタイプの社会学者の大好物であるという実態を知っていると、何となく理由が分かるかもしれない。つまり、知的インパクトが弱い最大の理由は、「〜の記号論」と題した読み物の多くが、記号を単なる静的な対応関係のカタログとして扱ってしまっているからなのだ。これに対して、特に社会運動にコミットするタイプの社会学者や評論家は、あまり「記号(論)」というフレーズを使わない傾向があるという観察が示すように、彼らは正しくも「~は記号である」と指摘するだけでは社会変革の力になりえないことを直感的に知っているのだろうと思う。実際、僕は岸くんが「記号論」について語っているのを一度も聞いたことがない。

一般に広く知られるフェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure)の記号学(sémiologie)モデルは、シニフィアン(signifiant / 記号表象)とシニフィエ(signifié / 記号内容)の二面性で記号を捉える。これを安易に文化批評に適用すると、以下のような定型文が量産される。

「高級外車(シニフィアン)は、富とステータス(シニフィエ)の記号である」

だから? このような表現は、一見すると「知的で」(笑)、分析的に見えるが、実際には「私たちは高級車をステータス・シンボルとして見ている」という世間一般の常識を、専門用語で言い換えただけにすぎない。その分析対象が何であるかの新しい規定にも役立たないし、その背後にある特性や関係の解明にも至っていない。なんでもかんでも「記号」と呼べるがゆえに、しょせんは何も説明していないのと同じ状態であって、「記号と呼ばれるものは記号と呼べる」という同語反復を語っているにすぎないのである。

通俗的で未熟な理解の記号論を弄ぶ連中が引き起こす第二の問題は、あらゆる事象を記号(意味の織物)として回収しようとするあまり、その事象がもつ物理的な実在性や因果的な効果、あるいは実用的な機能が無視されることだ。ジャン・ボードリヤール(Jean Baudrillard)が『消費社会の神話と構造』などで描いたように、物事が「使用価値」ではなく「記号価値」として消費される側面があるのは確かだ。しかし、世界は記号だけで構成されているわけではない。例えば、病気の症状を「社会的に構築された病の記号論」としてのみ語ることは、その病が身体に及ぼす生理学的な苦痛やウィルスの存在、すなわち記号に還元できない生々しい現実を覆い隠してしまう。なんでも記号として語るだけのアプローチは、世界の表面的な意味の戯れを名付けたりなぞったり批評して思想家ごっこをするのには都合がよいかもしれないが、現実の世界で起きている物事の手応えやメカニズムそのものを突き止める探究に対しては、足腰の弱い、浮ついた議論になってしまう。いや、ほんとに。或る物事が「記号」だからって、それが何だっていうの?

もちろん、記号としての効力を研究して堅実な成果を積み上げている人々もいるが、こういう研究に限ってマスコミ受けしない物事を対象にしていたり、あるいはまったく抽象的なところで議論されているので、要するに AV 女優のおっぱいを表紙にすれば記号論の読み物として売れるといった類の「商品」になりにくいわけである。そして、実はプロパーというのは出版社や大学当局による査定と無関係ではいられないので、寧ろ僕らのようなアマチュアが率先して、そういう成果を拾い上げて紹介するのが望ましいし、アマチュアが出版社や教育行政と利害関係にないことは、そういう利点があるのだ。だからこそ、敢えてプロパーの企業研究者や大学の教員にならないという選択肢があるわけなので、それを「在野」だの何のと上下や優劣で語るのは、はっきり言って実務能力や社会適応力を欠いた金持ちの道楽として学問をやっている連中の、しょーもない自意識でしかない。

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