Scribble at 2024-08-05 09:52:35 Last modified: 2024-08-05 09:52:54
フランスで開催されるオリンピックということもあって、あれだけ国内の左翼が反対しているというのに、報道では表面的にフランスのリベラルを体現しているかのような措置が目立つ。特に、LGBTQ+ に対する、僕にはパターナリズムや過剰反応としか思えない(つまりは「思想的リスク対策」だ)措置が色々とあるように見受ける。そして、もちろん上の事案も同じく疑問の余地がある。
このような事案については、二つの考え方がありえる。一つは、(A) 上のイタリア首相のように、生物学的に男性である人物は、精神的に女性であるとしても女性の参加する競技に出るべきではないというものだ。スポーツは同じジェンダーの人が競っているわけではなく、同じ体格の人が生物学的な女性という基準に照らして形式的な公平さを前提にしている。もちろん、女性という条件ではあっても体格はそれぞれ異なるわけで、生物学的な性を同じくしたからといって「平等」になるわけではないし、そんなことは不可能だ。しかし、生物学的に男性とされる人物を加えて競うことが公平ではないということは言えるだろうというわけである。
これに対して、もう一つの考え方は、(B) 女性であろうと体格はそれぞれ異なるのであるから、生物学的に男性であっても生物学的に女性とされる人よりも体格として劣っている人だっている。女性でも、『トゥームレイダー』のララとか、一般男性よりはよほど強い人もいるというわけだ。したがって、これは生物学的な条件で競っているわけではなく、生物学的に男性とされる女の人に負けたとしても、それを「男に負けた」と考えることじたいが差別であるということになろう。
もちろん、この二つめの議論はすぐに破綻する。なぜなら、生物学的に男でも女でもいいというなら、そもそもスポーツ競技に男女の区別があることじたい、意味がなくなるからだ。結局、100m ハードルの競技に生物学的に男性という女の人が出ようと、生物学的に女性という男の人が出ようと、生物学的に男性という男の人が出ようと、生物学的に女性という女の人が出ようと、人によって体格は違うのだから一緒に競えるはずだと言われれば反論のしようがなくなるであろう。もし、(B) を支持するのであれば、スポーツ競技にそもそも生物学的な男女の区別は不要であるということになる。その試合で負けたとしても、それは競技で勝った個人に負けたのであって、男性に負けたわけではない。そうして、多くの競技で圧倒的に生物学的に女性とされる人々が全く勝てないとしても、それは生物学的に男性とされる(メンタルとして男の人であろうと女の人であろうと)人に打ち勝つ生物学的に女性の、これまたメンタルとして男の人であろうと女の人であろうと、そういう人物が出てきていないからであって、そういう人物が出てくる可能性だってあるという前提で競技に望まなくてはいけない。
もちろん、これは論理的には筋が通っていると思う。もし、生物学的に男性とされる人々が本質的・不可避的に強くなる競技があったり、あるいは生物学的な男女が混じって試合をすることに一定のリスクがある競技(たとえばレスリングや柔道など体が密着する競技は難しいだろう)は、競技の種目から外してしまえばいいだろう。そうすると、100m ハードルで生物学的な男性に生物学的な女性が勝てないという結果が何百年と続こうと、「女の人」が勝ちさえすれば (B) を支持する人々にとっては満足なのであろう。ただ、疑いないと思うが、男の人であろうと女の人であろうと、生物学的に男性とされる人々がオリンピックの競技結果を独占することは目に見えている。個人種目だとファウルなど失格という可能性があるため、番狂わせの可能性はあるが、団体競技では生物学的な女性のチームが生物学的な男性のチームに勝つことは、これから何百年が経とうとないであろう。いくらバスケット・ボールの試合で『トゥームレイダー』のララを6人集められようと、相手はマイケル・ジョーダンが6人のチームだからだ。