Scribble at 2025-07-02 07:06:35 Last modified: 2025-07-02 07:08:05

昼ご飯の時間は連れ合いとアニメを観ていることが多く、主に彼女からお勧めされた作品を観ているのだが、いわゆる「2025年春アニメ」の一つであった『ユア・フォルマ』は、いまいちな作品であった。でも、或る意味では色々と考えさせられる材料にはなったから、観た意義はあったのだろう。ただし、単純にアニメ作品として評価するなら、お勧めしない。まず、人体の造形というか描き方が「設定資料集」のような、つまりは人員や時間が不足しているからかパターン化されすぎていて、正直なところ登場人物すべてがアンドロイドに見えたほどだ。あと色々なところで指摘されているように、「電索」という技術の設定は明らかに『攻殻機動隊』のオマージュどころか稚拙なパクリである。あと、これは毎回のように連れ合いが話題にしてきたことなのだが、犯罪やホラーのストーリーとしては演出それから話の展開が杜撰で、確かに僕も観ていて「おいおい」と思うようなところがあった。たとえば昨日は13話を観たのだが、連続殺人事件の容疑者である刑事を拘束もせず座らせたまま、主人公のエチカとハロルドが数分に渡って延々と喋り続けているのだが、そのあいだずっと犯人の近くにチェーンソーが置かれたままになっているのではないかとか、喋り出す前にチェーンソーを撃たれたハロルドが反撃してエチカの拳銃を振り落とすシーンもあったから、もし容疑者が起きたらチェーンソーか拳銃が拾われてしまう恐れがある。こういう詰めの甘さが色々なところにあって、連れ合いにしてみれば、こういう誰でも分かるようなリスクを考慮しない行動をする主人公ら(しかも刑事事件の捜査官だ)にイライラさせられるようだ。

ただ、僕はこういうアニメ作品を眺めていて、確かに『攻殻機動隊』のパクリだろうとは思うけれど、これがもし無自覚な模倣であるなら、もうすでにアニメや漫画は日本において半世紀以上の歴史を数えているのだし、いわゆる「文法」だけでなく世界観や人物設定やストーリーなども色々な後続の作品に「定型文」として細かく継承され反映されているという蓄積が長いのだろう。そうすると、オタクあるいは昔の作品を観ている人からすればパクリにしか思えないような描写や設定であっても、現代の若者にしてみれば定型文の一つを反映させたにすぎないという見方もできる。簡単に言うと、「勧善懲悪のストーリー」に誰かの著作権なんて設定したり想定できないだろう。それと同じである。いまや『攻殻機動隊』や『ガンダム』や『ベルばら』などの古典的な作品群がもつ色々な要素は、文化的なインフラつまりはその上で漫画やアニメを作るための基礎的な設備とか施設の類になっていると考えてもいいのだろう。と、ひとまず善意の解釈を述べておく。

そして、同じようなことはウェブのデザインやタイポグラフィにも言えると思う。弊社に15年くらい前に在籍していたデザイナーが残した言葉なのだが、「既にウェブのデザインはパターンが出尽くしている」と彼は言ったのであった。つまりは、ウェブ・ページをビジュアルな「紙面」として考えると、既に15年前の時点でウェブ・デザインなんてとっくにアイデアが出尽くしていたのである。もちろん、これは不正確で不十分な論評ではある。なぜなら、ウェブのデザインは UX として代表されるようにユーザとの相互作用で効果が決まるため、静的なタイポグラフィでは十分に捉えられないインタラクティブな観点が欠かせないからである。それはなにも JavaScript や最先端の CSS でアニメーションを実装するという幼稚な意味ではなく、ただたんにページのどこかをクリックして遷移するということだけでも該当するような概念だ。したがって、僕はウェブ・コンテンツのデザインとしてアイデアが出尽くしたとは思っていないし、そもそもウェブ・コンテンツとして「ページ」とか「インタラクティブなコンテンツ(昔なら Flash)」という範囲だけでものを考えるのも十分ではないと思っている。

だが、そこから先へ進むのは、もし新しい技術が不可欠なのであれば、それを新しく作り出したり提案できる才能がないといけないし、新しい技術がなくてもオリジナルな次世代の UI を考案したり設計したり実装できる才能が必要だ。つまり凡人にはできない仕事なのであって、大半の凡庸なデザイナーにとっては、今の時点でも十分に一般論として「ウェブ・デザイン」を体系化して論じたり解説できるのであろう。まぁ、果たしてそれを本当に(学術的な素養や業績に欠ける)デジハリとか(実務的な経験や実績に欠ける)芸大でやってるのかどうかは知らんがね。

ともあれ、そういう「凡人にとっての一般論」が体系的に整理されて共有されることは、僕は悪いことだとは思っていない。それは、簡単に言えば資格試験のテキストみたいなものであって、凡人がこういうレベルの体系的な知識をみんなで学んで共有していけないはずがないからだ。ていうか、「エンジニア」を自称するなら理数系大学の工学部を出てるのと同じくらいの離散数学は勉強しておくべきだし、「デザイナー」を目指すなら色彩生理学や美術史や障害者福祉やコミュニケーション論くらい勉強しろと言いたいくらいだ。いまではその手の一般論を簡単に AI が教えてくれるし、なんなら代行して考えてくれるわけだが、自分自身で学ぶことにも一定の効用はある。体系的な一般論を学ぶあいだに、些細なことでも疑問を感じたり、ここはと思うような小さいテーマでも、更に詳しく知ろうとする意欲が出てくれば、そのていどだけでも「凡庸」から一歩くらいは先に進んだと言えるはずだからだ。実際、僕は別に天才でもなんでもなく、そういうことの繰り返しをやってきたにすぎないのである。まぁ、数学は英語はともかく、哲学については例外的なところもあるけどな(そういう天賦の才みたいなものがなければ、国公立大学の博士課程になんて誘ってもらって引っ張り上げてもらえるわけないんであって)。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る