Scribble at 2023-03-24 13:16:50 Last modified: unmodified

自分にとって本質的に重大な内容をもつ論文とか資料の内容が、無料で、しかも外国語を読めるという意味でも「手に入る」保証なんて何にもないわけである。そもそもが、そういう内容の文章がどこかにあるという想定は、過去であれ同時代であれ、誰かが自分に代わって書いてくれているという重大な思い込みを仮定しないと成立しないからだ。もちろん、それが間違いだからといって、自分にとって重大なことは自分自身にしか考え付かないとか、あるいは自分にとって何が重要なのかは自分自身に最優先かつ最高の決定権があるというのも、これまた別の思い込みであろうと思う。いわゆる「客観」なんてぜんぜん信用に値しないわけだけど、いわゆる「主観」なんてものも大して信頼に値する基準ではない。したがって、何かを判断するにおいて(この場合は何が「自分にとって重要なのか」ということ)客観と主観を対比するのは構わないとしても、そのどちらかに頼っていいとか、それどころか両方を単に組み合わせるとか、ともかくその選択肢についてあれこれと議論していればいいというのは、哲学として非常に質の悪い視野狭窄(theme-setting、あるいは自己欺瞞と言ってもいい)だ。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook