Scribble at 2025-01-28 09:42:06 Last modified: unmodified
これは僕らが高校生の頃に話題となっていた話なので、もう40年くらい前のことだが、いまだに真面目な研究も議論も蓄積されていないと思う。それは、特に日本のテレビ番組で盛んに行われている「ストーリーや番組構成の不自然なカット割りや切断」という編集手法によって、番組を観ている視聴者にどういう影響があるのかということだ。既に僕らが高校時代に気づいていただけでも、こういう編集手法を取り入れ始めていた民放のバラエティ番組やクイズ番組やドキュメンタリー番組を観ている人にとっては、番組の流れに沿って動いている感情とか思考が急に切断されたり中断されるので、コマーシャルが終わった後で再び番組が続いても、それまでに続いていた思考や感情の流れを思い出したり再現することが難しいという感想があった。そして、そういう手法を使う側は、それゆえコマーシャルに切り替わるまえの数分間を巻き戻して放映するのだという言い訳をするようになり、コマーシャルの前後の数分間を重複した内容で編集し放映するという手法が大流行することになったわけである。
ストーリーの切断というのは、或る筋書きの時間的な推移だとか、或る状況の説明ナレーションだとか、あるいはクイズ番組ならクイズと回答のひとまとまりという流れを、どう考えても自然とは言いかねるようなタイミングで切断してコマーシャルや別のシーンなどへ切り替わってしまうことだ。たとえばクイズ番組などで、「さて、ではその答えは?」などと司会者が言ったタイミングでコマーシャルへ移行するのは、それなりに理解できるし、自然かどうかはともかく違和感はない。でも、司会者が「さて、ではその答えは?」と言ってから回答の映像が流れ始めたり、出演している回答者が口を開いて二言くらい口にしたタイミングで、いきなりコマーシャルに切り替わってしまうという手法を、どこのテレビ局かは知らないが考案し始めて、それが1980年代くらいに多くのテレビ局なり多くの番組に採用されるようになった。恐らく、そういう意図的な「尻切れトンボ」の編集にすることで、チャネルを替えさせないようにするという意図があったのだろう。
テレビ局、なかんずく民放がそういう編集手法を、視聴率を上げたり維持するのに有効なら採用するだろうということくらいは、高校生でも分かる話である。しかし、そういう一般論としての判断と、採用された手法によって映像を観ているわれわれにどういう影響があるか、そしてそれが視聴者なり生物として生理的に許容できるかどうかは別である。そして、僕らが実感したり同級生に尋ねたりして確認した限りでは、確認できた同級生のうち、そういう手法が採用されて映像が編集されていることに気づいた人が半分ていどいて、そのような編集で放映されている番組になにか違和感を覚える人が、そのまた半分くらいいたわけである。つまり、調べた同級生のうち 1/4 くらいは(40人くらいに尋ねたので、実数としては10人ていどだが)、そうした切断された映像の編集になにか違和感をもっていたわけである。
こういうことが、じわじわと多くの人々にどういう認知的な、あるいは発達心理学として議論しうる影響をあたえるのかは分からない。だって、たぶん学者やマスコミ自身ですら真面目に調べたり研究した事例なんてない筈だからだ。でも、僕はこういうことが蓄積されていって、或る集団なり地域なり国家なりという単位で多くの人々に何らかの影響を与えるかもしれないと思っている。そして、社会科学の素養をもつ者として言っておきたいのだが、哲学書や思想書なんかよりも、実際にはこういうことの方が多くの人々に長期間にわたって重大な影響を及ぼしているのではないかとすら思う。知らないあいだに、こういうことの蓄積によって、自分の感受性とか思考を一定のパターンとかアフォーダンスとして(どこにも責任や明確な原因がないかもしれない状況で)制御されているかもしれないということだ。僕が PHILSCI.INFO でもたびたび書いている「自己欺瞞」というコンセプトには、こういうことも含まれている。もしかすると、僕らはひごろから「自然」だと生活感覚をもっているというだけで、実は自分自身を騙したり誤魔化しているのではないかというわけである。