Scribble at 2024-09-29 10:40:22 Last modified: 2024-09-29 13:12:11
これは何度か書いている話だが、僕の中学時代と言えば1980年代の前半であり、ボード・ゲームとして普及していたシミュレーション・ゲームが流行の最盛期にあった頃だった。僕は特に戦争をテーマとした「ウォーゲーム」に関心があって、当時は梅田のキディランドとか、あるいはマニアックな品揃えのホビー・ショップや玩具屋があると聞いては、八尾市まで足を運んだりして買い求めていたものだった。無頓着あるいは呑気に書いて反感を買うのは避けたいわけだが、事実として当時は相当な金額の小遣いをもらっていたので、考古学の本を買うだけでなく、こういう1個で5,000円を超えるようなゲームを次々と買っていたわけである(それに加えて、当時は Nike のシューズが流行し始めた時期でもあったから、だいたい数ヶ月ごとに1~2万円くらいの Nike のシューズを買ったりしていた)。もちろん、それが分不相応な贅沢であったということは承知している。
それから、別の意味でも反感を買うのは避けたいので書いておくと、僕は軍事マニアでも武器オタクでもないし、このほどの自民党総裁選で決選投票となった二人のようなイデオロギーも持ち合わせていない。戦争あるいは戦史を歴史的な出来事の一つとして学ぶべきことだと考え、もちろんこういう状況に至らないようにすることを優先するべきだと思う。だが、表面的には軍事や戦史を弄んでいるようには見えるのだから、同級生の中にも愛好家が何人かいて放課後に学校でプレイしていたこともあるが、同級生の女子から「人殺しの方法を勉強して何になるの?」とか、少なくとも当時は進学校としても知られている国立中学校としては珍しく新左翼の団体にまでコミットしているような教員がいたので、「学校でそういう不見識なことはやめなさい」と言われたこともある。
しかし、これはゲームとして眺めると、やはり所定のセット・アップとルールがある一個のゲームであるという点は変わらないし、所与の条件で勝利することが目的となっている場合に、どのような方針なり方策があるかを考えなくてはいけないという点では、思考の訓練となる。したがって、もちろんウォーゲームは当時の多くの国の軍隊でも活用されたり研究されていたのは事実だが、そういう思考の訓練として活用され、一般企業でもマネジメントの研修で導入されていたという事実もある。確かに、思考の訓練というだけなら何も戦争をゲームの材料にする必要はないと言いうる。しかし、それなら単にオセロや将棋をやっていればいいわけで、膨大な過去の対戦記録も定石も戦法も考案されてきているのだから、それを活用しない手はないのも確かだ。しかし、囲碁・将棋にはウォーゲームと比べて決定的な違いがある。それは、ウォーゲームではプレイヤーの思い通りにならない要素をたくさんルールやゲーム・システムに組み込んでおり、そのうえでどう対処するかを学ぶことが実はウォーゲームをプレイする目的になっているということである。たとえば、天候の変化だとか、本国の経済状況の変化による補給の量とか、本来なら予定されている筈の支援部隊が来るかどうかとか、いや基本的にウォーゲームの場合は戦闘級から戦略級まで殆どのスケールで、個々の衝突がどのような結果に至るかをサイコロで決定しているのだ。だが、そういうサイコロで決まる結果の変動する範囲は、単純に勝つとか負けるという内容ではなく、非常に微妙な結果の違いであったりするので、それが後でどのような影響を及ぼすか見通しを立てにくい。こういうゲーム・システムを採用しつつ、そういう条件やシステムを採用した理由が、単なる「ゲーム・バランス」だとかゲームとしての面白さだけではなく、実際に起きた史実を反映しており、そして他の条件が変わればどういう可能性がありえたかという選択肢を与えられるようにデザインされているという特徴が、囲碁・将棋とは違ってウォーゲームにはある。
したがって、同じような不確定の要素をルールやシステムに盛り込むという発想で、SF だとかファンタジーのようなテーマで作られたゲームもある。アニメや漫画を原案とした、たとえばファースト・ガンダムの舞台を使ったウォーゲームもあった。しかし、僕は史実に学ぶ方が判断の是非を考える上で良いと思ったので、その手の架空の状況を扱ったゲームは全くやらなかった。ウォーゲームのプレイヤー、特に対戦相手がおらず「ソロ・プレイ」をする人は、史実としてどういう展開をしたのかという基本を押さえてから、改めて「歴史を振り出しに戻してみて」個々の状況での判断の是非を異なるサイコロの結果だとか異なる作戦行動などによって眺めるという学び方もする。
最近では、スマートフォンのゲームとしてもリリースされているため、平成生まれの人でも見かけたことはあろう。六角形の網状の線が引かれた地図に駒を並べて動かすという、妙な方式の将棋みたいに見えると思うが、そういう制約された状況や条件での思考を養うゲームであり、そこで現実に多くの人が亡くなったような戦闘の状況を(アホがよくやるように、頭の中で何らかのテーマ音楽を鳴らしながら)美化しているわけでもなければ、サイコパスのように外交の道具を動かしているだけだと見做しているわけでもない。もちろん、だからといって安っぽいセンチメンタリズムなど僕は持ち合わせていないので、いったん現実としてこのような状況に陥ったら、やることは恐らく実質的な人殺しであろうとは思う。よく、哲学や倫理学の安っぽい入門書などで、「眼の前で北朝鮮の軍人に親や子供が襲われているのを見ても、戦争や戦闘には反対だと言って何もしないのでしょうか」などと、僕にはどう考えても愚問としか思えないようなことをわざわざテーマとして紹介する無能な人間が物書きや大学にもたくさんいるわけだが、こんなことは人に問うまでもないわけで、わざわざこれを「倫理学の問い」だと言っている連中こそ、学術の啓発や議論を装ったペテン師である。そういう場面で「戦争はいけない」とか「人をあやめてはいけない」という観念に支配されて動きが止まった時点で、その人物は人の生命に関する善良な思考をしているわけでもなければ、端的に「善い人」でもなく、観念に支配された異常な状態に陥っている可能性がある。つまり、倫理学のイカサマ本が提示している状況で特定の思考や行動をするという、いわば「正解の一つ」だとか、少なくとも選択肢の一つだと仮定されているような思考や判断は、安物の哲学書がイージーに導入する「心身問題」のような偽のテーマ(だとしか僕には思えない)と同じく、僕らのような科学哲学者に言わせれば精神疾患の徴候を表している可能性を考えるべきなのである。そして、それをあたかも選択肢の一つとして扱うべきだと言っている時点で、そういう倫理学者や道徳の議論をしているかのようなイカサマ野郎たちは、人をでたらめな選択に追い込んでいるだけなのだ。