Scribble at 2023-06-05 13:38:03 Last modified: 2023-06-05 17:38:35

添付画像

『フォークナー短編集』(ウィリアム・フォークナー/著、龍口直太郎/訳、新潮社、1955)

フォークナーに挫折するという人の話を聞いたことがあり、それまで一読すらしたことがなかったので、このたびようやく安い文庫本を手に入れた。「嫉妬」、「赤い葉」、「エミリーにバラを」、そして「あの夕陽」を読んだところである。なるほど、アメリカ、あるいは南部の歴史や暮らしについて何か関心があるというわけでもなければ、確かに面白くもない野蛮な時代の田舎の話が延々と描かれているだけで、なんと面白くない小説ばかりだと思う人がいるのも分かる。僕も、「黒人と科学哲学」とか「南部と分析哲学」とか「南北戦争とアメリカ思想」みたいな関心がなければ、別にこんな小説を読もうと読むまいと差別や人種について何を考える(べき)かは大して変わらないと思った。フォークナーの小説を読むからこそ、黒人差別や人種差別をしなくなるような人が増えるかと言えば、僕はそんなのぜんぜん信じない。何かの回顧録で「フォークナーを読んだ」というきっかけを自分の来歴に飾りとして置く人はいるかもしれないが、たぶんそういう人はフォークナーを読んでも読まなくても人種差別に加わっていなかったような人物なのだろうと思う。

もちろん、彼の作品は差別や暴力というテーマだけで語ったり読むものではないだろう。したがって、他にも色々な脈絡で読まれて良いし、そうあるべきでもある。たとえば、翻訳のせいもあるだろうが、この作品に登場する「凡人」は、お互いに思わせぶりな様子で喋っていながら、実は会話がぜんぜん噛み合っていないところがある。よって、筋道を立てて話すべきだと思っていたり、それを目標に何事かを学んだり考えている人にしてみれば、はっきり言ってイライラするような連中だろう。でも、世の中にはこういう人たちがたくさんいて、「ネトウヨ」と呼ばれていようと学歴がどうであろうと、イデオロギーや学識とはあまり関係がなかったりする。大学教授でも、会話の通じない人がたくさんいるからだ。よって、「事実なんてどうだっていい。中国人は敵だ」とか、「調べてみるなんて無駄だ。朝鮮人がやったに決まってる」とか、そういうことを平気で Twitter とかに書いている愚劣で無知な「愛国者」どもが、いまもあなたの目の前にたくさんツイートを並べているという、まぎれもない事実が横たわっている。フォークナーが描いている様子なんて、200年が経過した時代の Japan とかいう自称先進国らしき辺境地帯においても、大して変わらない光景が見られたりするわけだよね。したがって、そういう連中が「いる」ということを改めて自分自身に突き付けてみるためにも、こういう作品は残るべきだし、読み継がれるべきなんだろうと思う。

傲慢にも自分自身を含めて「われわれは」と言うつもりはないが、少なくとも教養ある知識人は、こういう凡人から逃げられるものではない。とりわけ、自分たちでは善導ないしは何かをフォローしているつもりの通俗作家どもは、こういう人たちに本を読んでもらうしか金を稼ぐ方法がないわけで、それにもかかわらず効果がないという、55年体制の社会党が安保にしがみつく寄生虫だったのと同じで、哲学や思想の通俗本を書いてる人々というのは、要するに寄生的な啓蒙を都内の出版社と一緒にやらざるをえないわけだ。こういう自覚がないまま、単なるパブリシティが啓蒙の効果だと錯覚する(あるいは、敢えて公に「宣伝」する)人が何と多い事か。恥を知るといいね。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook