Scribble at 2024-08-07 08:45:35 Last modified: unmodified
昨日、BOOKOFF で手に入れた『デジタル情報と符号の理論』(加藤 浩/著、放送大学振興会、2013)を眺めていて、誤り訂正の仕組みとして冗長化したデータを使う「多数決」という話を追っているうちに、もちろんブロックチェインのような多数決を応用した最新の仕組みについても思うところがあったのだけれど、そもそも僕は高校生の頃から、この多数決という決め方の妥当性や正統性がよく分からない。したがって、僕は高校時代に自治体執行部の副会長だったのだが、生徒を集めて何事かを決めるときに、いつも多数決を採用していることに疑問を感じていたわけである。たとえば僕の母校では学校行事を自治会つまり生徒が主催する。したがって、体育大会を実施するかどうかを生徒が決めて、やると決まれば場所の確保も自分たちで電話して予約し、競技場を借りる費用も予算から捻出する(たいてい長居競技場を借りる)。文化祭にあたる「附高祭」を実施することも、まずやるかどうかの決定を自分たちで決めてから、周辺住民に事前の挨拶回りをしたり、ステージの設営なども手配する。でも、そうしたことは高校全体の行事として行うのであるから、少なくとも議決権を持っている「代表委員」の全員が同意するべきではないのかと思っていた。どうして多数が同意するだけで生徒全員を巻き込めてしまうのか。それは一つの「暴力」ではないのかという疑問を持っていた(当時は左翼だったので、何かと言えば疑問を感じたり抗うべきことを「暴力」と呼んでいた。その程度には僕も幼かったわけである)。
しかし、その疑問はさほど正当な動機や理由をもつものでもなかった、と今では思う。なぜなら、多数決、つまり民主主義に疑問を持っていた理由の一つとして、やはり当時は大阪でも名の知れた進学校の生徒でもあったから、周りの大人を眺めていて「われわれは彼らとは違う」というエリート意識が何程かあったからだ。凡人は多数決で多勢が物事を決めたらよいが、われわれ選ばれた存在は意見を一致しなくてはいけない筈だというわけである。凡人が決めることは真理と関係のない妥協や主観にすぎないが、われわれは「本当に正しいこと」を決める筈だからである。まぁ、今にして思えば典型的な中二病と言えるが、もちろん若者にはこの程度の高慢さや熱意があってもよい。そして、大学に入って学術研究の壮大さに頭を殴られたり、社会に出て凡人と働く難しさに悩んだりして、ようやく「世界を構成し、世界を動かしているのは凡人である」ことを知るようになるし、実は社会システムの理想は凡人をエリートのように仮定したり、あるいは凡人をエリートのように育てるベストな制度ではなく、平凡な人々が凡庸に生活しても安泰でいられるベターな制度であると知るようになる。そして、最後に重要なことだが、偏差値が80あろうと知能指数が150あろうと、しょせん人は生物として有限な存在であって、数十年も経てば死んでしまう矮小な生物の個体でしかないという冷徹な事実に向き合うことで、自らの矮小でも満足のゆく使命というものに行き当たる。それが歪むとオウム真理教のような話になるわけだが、僕はそういう自らの有限性や凡庸さを知った上でのエリート主義や権威主義を支持している。そして、実際に僕は会社でも、大多数の社員に比べて、事実として学歴も知性も教養も知識も経験も技術も桁違いに凌駕しているとは思っているが、それでも上には上があり、個々の才能や分野については僕だって素人だし凡庸でもあるという自覚があったうえで役職者の立場を担っている。なので、「俺は有能で高学歴だから言うことを聞け」みたいな態度をとったことは一度もないし、そんなことにビジネスマンとして意味がないことは既に分かっている。なぜなら、僕は町工場で下っ端の職人をしたり、NEW JAPAN でマッサージ担当のおねーさんを客にアサインする管理担当だったり、あるいはスナックのバーテンダーだったり、必ずしも学歴なんて仕事ができるかどうかと関係していない仕事にも就いてきたからだ。もちろん、そんな経験を逆にひけらかして「底辺の暮らしの経験」を自慢する社会学者や左翼のような連中とは違う。
ともあれ、こういう経緯で、僕は「権威主義」を標榜するようになったと言える。自分が権威になりたいわけではないし、誰か優れた人材を単なる思考や仕事の代役として充てがうような逆差別のために権威だと祭り上げたいわけでもない。一定の条件を満たせば僕自身も自らの学識や能力によって、狭い範囲ではっても権威としてものを書いたり発言できると思うし、権威の名に値しない人材は自由に批評したり、場合によってはその人物の権威を無視してもよいと思うし、実質的に権威の座から引きずり下ろすべきでもあろうと思う(もちろん「社会的に抹殺」するだけであり、本当に殺す必要はない、といちおう思う)。