Scribble at 2023-11-12 09:00:19 Last modified: 2023-11-12 10:57:08

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かわんご @gweoipfsd / Winnyについては包丁をつくっただけなのに、包丁をつかって殺人したひとの共犯になるのはおかしいという例えをよく聞くけど、現実には金子さんは、P2Pソフトが著作権違反のファイル共有にもっぱら使われているのを知った上で、いままでよりも身元が完全にばれないWinnyを開発したわけだから、殺人につかう刀を作って、包丁だと言い張っていたというほうが例えとしては正確だと思う。

そういう意味では有罪だけど軽微な罰金刑にとどめた一審判決がむしろ温情的であり、バランスの取れた判決だった。なんか勘違いしたエンジニアたちのつくった世論のムードに押されて完全無罪にした2審以降は、むしろ司法の歴史に汚点を残したと思う。

https://twitter.com/gweoipfsd/status/1722338416229339384?s=12

Winny を開発した人物が存命で係争中だった頃から、僕は企業の情報セキュリティ・マネジメントを預かる実務家として Winny の公開やサポートは犯罪の幇助にあたると考えてきたし、一個人としても同じ意見を持っていると書いてきた。企業や各種団体で情報セキュリティや法務を担当している人々の大半が Winny のようなソフトウェアを如何わしいものだと見做していたことは事実であり、したがって高木浩光氏を始めとする情報セキュリティ(法制)の一部のプロパーと、これまた一部の「業界リバタリアン」が Winny の公開やサポートに可罰的違法性がありえるという考え方を批判し、それからどさくさで都内のインチキな IT ベンチャーの経営者や、「死ぬまでコーディングしていたい」なんてフレーズをブログのプロフィール欄に書いてるようなガキどもが、「規制や法律はイノベーションへの抵抗である」だの、レギュレーションや監査という「陋習」は都内の天才お坊ちゃんたちの豊かな創造性を破壊するだのという、くだらない口答えやキャンペーンを細々とブログや Twitter で展開していたというのが実態である。

しかし、(1) 日本がアメリカどころか中国やインドに IT で遅れを取ったのは法令があったり規制に従うお上品な国民だったからではないし(規制や法令はなかったのだから、規制や法令があったせいでないのは明らかであり)、(2) そもそも法令や規制がいまだに存在しない AI の分野ですら殆ど成果を上げていないし、(3) Winny の作者が逮捕・起訴されたことが原因で P2P の研究・開発が萎縮したという(刑法学ではお馴染みの「因果関係が推定できるような」)事実はないし(上記で「かわんご」氏も指摘するように、P2P はコンピュータ・サイエンスの理屈としては1970年代からあって、Winny は単なる「ハック」としての技術的に巧妙な応用でしかない。理論的な進展とは殆ど関係がないのだ)、(4) Winny が話題となった2003年頃の時点で、既に商業的にも技術的にも理論的にも国内の事業者、研究者、行政はアメリカや中国に大きく水を開けられていたといった、数々の反証材料がある。いま業界をリードしている多くの企業、中でも GAFAM として知られる企業の中でも Google や Amazon は、既に1990年代の後半には事業を始めていたわけであって(Apple と Microsoft に至っては更に前から)、ということは Winny なんてものが騒がれるよりも10年くらい前にはとっくにアイデアや事業を興していたのである。

つまり、そもそも日本の IT はイノベーションの環境があってもイノベーションを起こすための色々な条件に欠けていたと言える。僕に言わせれば、世界規模のビジネスや革新的な技術を打ち立てられなかった原因を法律や規制のせいにするのは、単なる無能の言い訳でしかない。イノベーションの環境が整うということは、法令や規制がないという意味ではないのだ。そう考えると、よくイノベーション・バカが引き合いに出す個人情報保護法が施行されたのは2003年であり、2003年以降にデータ・ブローカーのような他人の個人情報を弄ぶビジネスを脱法的に展開して荒稼ぎすることが難しくなったという意味であれば分かるが、実際には犯罪であろうとなかろうと、個人情報保護法が施工された2003年の時点で、既に日本の IT 技術者や起業家なんてアメリカや中国よりも10年以上は、学者としてもエンジニアとしても起業家としても、好き勝手に他人のパーソナル・データで荒稼ぎできたにも関わらずできなかったほど、遅れた状況にあったと言って良い。そもそも規制とは、規制しないといけない権利侵害や紛争が起きているから必要とされるのであり、既に欧米では多くの紛争が生じていたということは、ビジネスや犯罪として広く問題が起きていたのである。その多くは単なる(今で言えば)犯罪や脱法的な行為だが、その中にあって成長していったビジネスもあったのだ。

したがって、上記で紹介した「かわんご」氏の意見は当時も今も企業の実務家としては全く常識的である。リバタリアンの中には、P2P の研究や開発が減退したと言って、いまで言う暗号通貨(ブロックチェインで P2P を活用する)のビジネスを起こすチャンスが日本で奪われたなどという妄想を語る者もいる。果ては、法令や規制というもの自体を敵視したり、イノベーションやビジネスの為なら中国の「愛国無罪」ならぬ産業育成のための「イノベーション無罪」や「起業無罪」とも言えるような、脱法的(場合によっては違法でも)なビジネスとか技術を称揚するような手合までいる。しかし、そんな連中のたわごとは、そういう連中が暇潰しにタイムラインを席巻している SNS や掲示板や CMS サイトの上だけでのことであり、そういう場所だけで噴き上がれば噴き上がるほど、従来からの「ヴァーチャル vs. リアル」という多くの人々の対比を補強してしまい、自分たちを「現実離れしたことを喚いている、しかし『ヴァーチャル』では無視することが難しい迷惑な人々」として無自覚にブランディングしていくだけとなろう。要するに、自らの(プラットフォームが偏っているという自覚のない)過剰な発信の積み重ねが自分たちを世間という名前の「リアル」な場所から孤立させていることに気づいていないわけである。これが、SNS は Twitter のような規模のプラットフォームであっても、とりわけ言語ごとに孤立しやすいという事情もあって、エコーチェインバーを形成しやすいと言われる理由なのだろう。

・・・という話は、もちろん一つの重要なポイントだ。でも、実は上記のツイート(X だと何と呼べばいいのか、知らない)を取り上げた理由は、もともとは違うポイントであった。それは、彼のツイートにぶら下がっているコメントを見ていただければ分かると思うが、これは日本の独特の流れだと思うのだけれど、喩え話の例え方に固執する人々というのが必ず湧いて出てくるんだよね。これは、PHILSCI.INFO でも「雷男やゾンビや色盲女が大好きな分析哲学者」と表現して揶揄しているのだけれど、はっきり言って話題の本質と関係のない些事に見つかる欠点や不備を何か本質的で重大なことであるかのように騒ぎ立てるバカというのが、SNS でも哲学でも他の分野でもいるんだよね、日本という国は。これは、やっぱり「言霊」という言い方があるように、言葉の選び方一つに何か重大な問題があるという言葉の魔術説を信じている人が多いということなんだろうか。英米哲学で言うときの「言葉の魔術説」というのは、簡単に言うと或る言語表現(英語で言う "rabbit" や日本語で言う「ウサギ」という表現)が、その指示対象にとって何か本質的な特性とか属性を表現したり、あるいは文字が指示対象の何らかの属性に「対応している」と考えてしまう錯覚のことだ。少し戯画化して言い換えると、兎は「ウサギ」と片仮名三文字で表現されるべき何らかの原因があると考えてみたり(したがって、日本の極めつきの無能と言っていい分析哲学者は「ウサギ」という言葉の三文字表現性 property-of-being-able-to-be-expressed-with-three-letters などという特性が偶有的なのか普遍的なのかという議論をしたりするわけだ)、あるいは「う」や「さ」や「ぎ」という発音に何か兎と本質的な関係のある音響学的な特性があると考えてみたりする。こういう、僕ら哲学者に言わせれば暇潰しとしてすらバカバカしいにも程がある錯覚や妄想にとりつかれているような議論を、かなりの日本人が好んで SNS で繰り広げる。これは、僕が他の言語で交わされている議論や会話を眺めている限りでは、日本に特有の傾向だと言ってもいいと思う。

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