Scribble at 2021-05-19 20:05:54 Last modified: 2021-05-31 17:47:37

つい何日か前に note taking について言及したのだが、いまだに小学校や中学校ですら生徒に note taking を正確に教えない教師が多いようだ。そのせいで、note taking について根本的に誤解している人が、いまだにたくさんいる。つまり、〈ノートを作る〉という作業を写経や記録と勘違いしているということだ。それゆえ、既に数多くの研究で結果が知られているように、板書を書き写すだけの作業とか、参考書の字句を書き写すだけの作業を延々と繰り返しても、全く身につかないのである(ついでに、ノートでも参考書でも漫然と「大切」だと思う箇所に蛍光ペンなどを塗っても、ぜんぜん記憶の補助にはならないことが知られている)。

ノートを作るという作業は、簡単に言えば参考書で読んだ内容や授業で先生が解説した内容を、自分の理解において〈説明する〉とか〈まとめ直す〉ことにほかならない。ノートというものは、何かを書きこんで覚える道具なのではなく、自分が既に見聞きして理解した内容をアウトプットする道具なのだ。よって、参考書を読んで理解してもいない文字列を書き写すだけのことに学習効果など全くないのは明白である。同じく、授業で先生が話していたことを理解してもいないのに、音声を文字に変換して記録するだけの作業に学習効果がないということも分かるだろう。僕が学んだ学校(大阪教育大学附属天王寺小学校から高等学校)では、そういうことが分かっていたからか、授業中にノートをとることを許さない先生も一部にいた。そこでテーマになっていることを理解しようとせずに筆写することだけに集中するなんてことは学習でもなんでもないからだ。

もちろん、ここで「理解」とは言っても正確だったり十全であるとは限らない。よって、ノートに書かれた内容は理解の仕方として(それゆえ記述内容として)間違っている可能性もある。それゆえ、後から読み返して不足を補強したり、誤りを訂正するといった作業を繰り返して、いわば〈育ててゆく〉のでなければいけない。そのためには何度か読み直す必要があるので、ノートへ最初に何かを書いただけで「勉強した」と思い込むのは錯覚なのである。いわゆる記憶力が強い人であれば、ノートを作ることと勉強の成果が出ることとが記憶力という共通原因で関連付けられるが、それはただの correlation であって causation ではない。それはノートに書くことで何かを記憶したわけではなく、既にノートへ書く前に覚えていたことを書き写したにすぎないのである。よって、そういう人はノートを作る必要など最初からないのだ。しかし、僕のように記憶力が乏しい(というのは思い込みかもしれないが、ともかくそういう自覚がある)者は、堅実に身につける方法としてノートを作ったりする色々な工夫が欠かせない。そして、ノートを作るという作業を繰り返しているうちに、何が効果的で何が役に立たないかを自然と身につけるわけである。

自称東大生や東大生を育てた母親などによる「勉強法」が実は大半の人にとって殆ど役に立たず、また従来とは異なる奇抜な「勉強法」を掲げて雑な教育本を書く「東大生の母」が後を絶たないのは、そういう理由がある。そういう人たちは、自分たちのたまたまもっている〈物覚えが良い〉という生理的な特性で得た成果を、「勉強法」という実は無関係なのに同時にやっていたことと因果関係があるかのように(東大に入れるていどの記憶力はあっても)錯覚してしまうのだ。また、兄弟を次々と東大や京大へ送り出したなどと言う母親の「勉強法」にしても、それぞれの子供にとって〈現役合格〉というチャンスは一度だけなので、A-B テストをするリスクはとれないから、偶然の一致でやっているだけの「勉強法」であっても、それをしないで子供が東大に受かるかどうかを試すことなど怖くてできないわけである。

その A-B テストは、実は読者である「子供を東大へ入れたい母親たち」が実行しているわけだ。でも、彼女らの〈失敗談〉は日本人的なセンスでは「恥」となるので、なかなか表に現れない。そして、現れないことを言い訳にして、そのような愚にもつかない「東大生を育てた母の本」が売れ続けるというわけだ。このように、反証が存在しないことをもって特定の仮説が正しいと結論するのは、それが自然科学の仮説なのか、それとも社会科学の仮説なのかは関係なく、大人の判断として「未熟」と言うべきだ。

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