Scribble at 2021-05-19 19:45:31 Last modified: 2021-05-31 17:54:32

当サイトでは鹿持雅澄に関連するページを公開していて、もちろん彼が江戸時代末期の国学者の一人であったことは承知している。そして、一口に「国学者」と言っても、頑なな排外主義者や自尊、いや中二病と言ってもいい未熟な思想の持ち主もいれば、多くの著作で指摘されているように「実証的な研究」をやったとされる本居宣長のような人物もいたと言われる。そして、『やちまた』などに登場する多くの国学者たちの事績に触れて幾らかの関心はある。しかし、学術研究者としての〈学術〉に関する態度とか見識についてはともかく、彼らの政治思想については殆ど関心がない。彼らの政治や社会に関する見解は、現代の人文・社会科学の水準から言って、とても批判に耐えられるようなレベルにはないと思うからだ。

エピゴーネンの多くは、本居宣長が「実証的な」研究をやったと評価する。しかし、それはどういう意味だろうか。現代の日本文学や日本語学や言語学の成果に照らしてみて、例えば古事記に関する何を本居宣長は「実証」したというのだろうか。古事記に出てくる特定の言葉の言表つまり token が他の古典とか文献に出てくる言表と関係があるとかないといった話について、この本にも出てくるしあの資料にも見つかったなどと token としての一致という関係を指摘するだけで「実証」になると思うなら、それこそ大昔の古典研究というものである。そのような作業は、「なまえ」と "Name"(なーめ)の発音が近いからといって日本語とドイツ語は近い言語だと言っている占い師のようなものだ。

人の為した事績について「実証的」と言いさえすれば肯定的で高い評価を与えたことになるという事情は、もちろん意図的な印象操作に使われることもあるが、無自覚に使ってしまっている学術研究者も多い。学術研究者を名乗っていても、「実証」とは何であるかについてどれほどの考察を積み上げたり知見を持っているというのか、甚だ疑わしい人も多い。同じような事情で、いまだに「科学的」と言いさえすれば革命的で進歩的な〈喜ばしきこと〉だとラベルを貼ったことになるという未熟な手合が国公立大学の教授にすら掃いて捨てるほどいる。そもそも、「革命的」とか「進歩的」なるものにしても、それ自体で良い悪いを含意しているわけでもあるまい。そういうわけで、イデオロギーのいかんによらず、思想として未熟な人々の評価には注意しなくてはいけない。

では、大学教員の誰が「未熟」なのか。そんなこと知るか。思想家として堅実な態度というものは、「誰であろうと全員が『未熟』なところをもつ」と仮定すると共に、「誰であろうと全員が『熟達』しているところをもつ」と仮定して、それぞれの可能性に応じてどういう態度や対応を弁えておくかを前もって決めておくことだ。それをしない限り、他人がどうかは関係なく、われわれ自身が根本的に「未熟」である他はなかろうという話になる。

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