2019年06月30日に初出の投稿

Last modified: 2019-07-11

歩道はせまい、車道はこわい、結局、どこを走ったらいいの?

自転車に冷たい国、ニッポン――安心して走れる街へ (岩波ブックレット)

岩波ブックレットに障害者差別解消法や支援基本法について書かれたタイトルがあるかどうか調べていたら、『自転車に冷たい国、ニッポン』というのがあったので、これは歩行論の資料として買っておこう。上記に引用したのは表紙に書かれているキャッチフレーズだが、はっきり言って法的には選択の余地などないのだということを自転車の利用者に叩き込んでこなかった、日本の交通政策や教育に大きな問題があったという僕の主張を裏書するものだと思う。研究者ですら、こんな選択ができると思い込んでいるのだから。 自転車は、50万円の Chinelli のロードレーサだろうと 8,000 円の中古ママチャリだろうと、道路交通法では「車両」である。走行するべきは車道であって、選択の余地などないのだ。しかし、日本の交通政策や行政は、自転車が普及した頃から自転車を車両として安全に走行するための施策を殆ど何も講じてこなかったため、自転車に乗る人々も自分勝手な判断で、或るときは歩道を走り、そして或るときは車と一緒になって歩道の信号を無視して車道を走るという傾向(独り善がりな判断をサバイバル感覚と混同する傾向だが、これは世の古今東西を問わない凡俗の風習みたいなものだろう)を誰も違法行為や不適切な挙動として大きく取り上げたりしなかった。 もちろん、法律家や社会科学者が自転車の挙動について大きく取り上げてこなかったのは、彼ら自身も自転車に乗って走行する人々について真面目に考える必要を感じてこなかったからだ。その傍証として、歩く人は「歩行者」、そして車に乗る人は「ドライバー」という一般的な名詞があるのに、自転車に乗る人の一般名詞は日本語として存在しない。「自転車乗り」はロードレーサに乗るような趣味的な競技愛好者のことであって、ママチャリで LIFE へ買い物に行く人を自転車乗りとは断じて言わない。つまり、名詞がないということは、ジャーナリズムだろうと学術だろうと考察の対象になった試しが殆どないという事実を暗示しているのである。 然るに、自転車の交通について着眼している点はいいとしても、このように不見識な(と思えるフレーズの)発想を含んでいる本が出版されるのも仕方が無いと思う。 僕の基本的な考え方を最後に書いておくと、自転車がいまの車道の一部を走行すれば済むという発想は完全に官僚的な部分最適化の発想であり、もしこの本がそういうことを提案しているのであれば、「現実的」ではあっても学者が語るに値しない、サラリーマンでも考え付くイージーな議論だと思う。これは、そもそもヒト(少なくとも社会政策なので基本はヒトである)と物資の移動手段という基本的な概念から出発して、もちろん「空飛ぶタクシー」など実現していない手段や、概念としてしか想像されていないものも含めて、移動とは何なのかという議論から出発しないと、実現可能かどうか、そしていまの社会やヒトの生理にとって適切かどうはともかく、妥当な見通しというものは作れないだろう。歩行と自転車による走行の区別や差はどこにあって、行政的に制御できる(すべき)範囲がどこなのかを見極めることは、そういう厳密かつ形式的な議論があってこそ可能である。安っぽい個人的な経験の積み重ねだけで同じ定式化に到達できないかと言えば、それは分からないが、少なくとも凡人には無理だ。

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