Scribble at 2019-06-26 10:25:56 Last modified: 2022-09-29 11:03:05

これまで何度か書いてるけど、ここ40年くらいの傾向として、お笑い芸人が全国規模で一定の地位を築くと冠番組としてのバラエティの司会しかやらなくなって、本来の芸をしなくなってくる。その発端は、初期なら明石家さんまとか笑福亭鶴瓶だったが、一層その傾向が著しくなったのは、恐らくとんねるずからだろう。もちろん、とんねるずは自分の番組でコントを続けていたが、あくまでも自分の番組だけの話であって、それ以外の舞台に立つことなど殆ど無くなったはずである。そのあと、ウッチャン・ナンチャンとか、ナインティ・ナインとか、ダウン・タウンとか、色々と後続があって、きわめつけが、先日の報道でも知られた、反社グループの宴会に参加していた吉本芸人だ。特に、ロンドンハーツだかロンドンブーツだかいう二人組のチンピラみたいな連中なんて、もともと漫才師なのかコントのタレントなのかもわからない。ここ最近は、元の芸で何も業績を上げていないうちから、恐らくは単純な「しゃべくり」と外見だけでバラエティ番組の司会などに収まる芸人がいて、吉本の養成所から演芸場での場数を無視してテレビ局などに直行するルートでもできているのだろう。

要するに、特定の番組ができなくなるというだけで、彼らのどういう芸を観たり聴いたりできなくなるのか、舞台にすら立ったことがないような吉本芸人のことなど、僕らには何の感慨もない。とにかく、最近は《人前で喋る》というだけのことで番組に出ているような司会芸人が多すぎると思うね。田舎の結婚式場へ出張営業してやってるようなことを公共の電波でやるなよって思う。あるいは、ダウン・タウンの松本みたいに、自分のやってることがハイセンスな芸だと自分だけで思いあがってる、ショーモない「重鎮」が多すぎる。こいつなんて、それこそ横山やすしが言ったように、コンビニの前でヤンキーが立ち話してるのと何も変わらないレベルだと思う。

僕は、漫才とか落語とか、要するに一部の芸能というものは本質的に芸術にはなりえないものであって、それゆえコントや喜劇には独特の良さがあると思うんだよね。ビートたけしとか片岡鶴太郎とか木梨憲武とか、安っぽい芸術路線に行った連中にも言えるけど、芸人がアートとか芸術に関わり出したら、もう地べたで芸をやる才能がなくなった証拠だと思う。或る意味で、それは「賎業」としての自覚や哀愁なのかもしれないし、その是非は別に社会学者が安っぽい議論をすればいいけど、笑いとは生理的な問題なのだから、「この落語は科学的に面白い」とか、「このコントはダイバーシティを含んでいるので正しい」とか、考えて評価したり反応する次元のものではなかろう。

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