Scribble at 2023-09-08 10:26:22 Last modified: 2023-09-08 18:24:35

何年も前から、たまに起きる現象として気になるのが、勝手に画面がスクロールするというものだ。こうして記憶に残るくらいは起きるものの、そう頻繁に起きるわけでもないし、ターミナル・ソフトでリモート・サーバへアクセスするときに起きるといった致命的な事故がないため、そう気にしてはいないのだが、自分の道具を満足にコントロールできていないという、いささかの苛立ちは感じる。

しょせん、仕組みも運用も十分には把握できておらず、またそうする方法なり知識も不足しているパソコンやスマートフォンにおいては、大多数のユーザは道具としての満足行く操作や管理や運営は(たとえ意欲や基本的な知識があっても)不可能であろうし、また現実的でもあるまい。僕は自分の道具としてのパソコンについて知りたいという意欲も予備知識も十分にあるとは思っているけれど、Win32API をこれから勉強しようとは思わないし、それを知ることこそパソコンを知ることだとも思っていない。

しかし、自分の知らないところで、ましてや僕にとって不愉快なことが勝手に起きるのは困る。画面が何の正当な理由もなく勝手にスクロールするとか(これは Google IME を疑ってよい理由があるけれど、ATOK や MS-IME なんてガラクタを使うくらいなら、まだ許容できる)、Adobe Creative Cloud のように Node.js なんていう(敢えて言うが)スパイウェアでサーバへデータ通信されるとか、Windows そのものにも数多くの困った機能はあるが、自分で否応なしに入れたアプリケーションも不愉快な挙動を起こすとあっては、ひとまずそれを補う利便性があればこそ、それが欠落していてはクズとしか思えない。

そういうわけで、1年に1回もなくたまにだが、コンピュータやスマートフォンというものをどうして使う必要があるのかということを、少し原点に立ち返って問い直すのは大切だと思っている(実際、それをやると一時的に興味だけでインストールしたアプリケーションを整理する良いきっかけになる)。つまり、コンピュータというものは基本的に「計算機」であるからして、そこからどういう分野とか目的への応用を認めることが妥当であり、どういう用途への応用が無駄で過剰なことなのかを切り分けるということだ。よって、たとえば通信ですら所与の無条件に「有用」だったり「重要」な価値をもつわけではない。そもそも僕が初めて8ビットのコンピュータを使い始めた1980年代前半は、単独で何かを計算する(高度で高価な)道具としての運用が大半だった(音響カプラと呼ばれるクレードル機器で、電話回線を使って通信する場合もあったが、通信する相手も同じ機種とソフトウェアを持っていなくてはならない。それに、アマチュア無線のマニアよりも数が少なかったパソコンのマニアどうしで、何のデータをやりとりする必要があるというのか)。

こう考え直してみると、確かに現在でも多くの業績を出しているエンジニアや研究者は、まずパソコンをスタンドアロンの開発環境や計算道具として利用していることが多いと分かる。AI の研究にしても、いまでこそクラウド・サービスで大量のリソースをリモートから運用できるが、もともとは手持ちの「計算機」で大量のデータを学習していたわけである。そして、Stable Diffusion などで使う LoRA のような独自トレーニングのデータを作っている人なら分かるように、何時間も大量のデータをパソコンにトレーニングさせているときこそ、「計算機」として使っているという実感があるはずだ。

あーあと、Google IME と言えば Twitter (X) でタイプするときに、勝手に助詞や助動詞を挟み込んだりするバグがあるような気がして、使うのをやめたんだっけ。なんか、こういうアプリケーションの問題とか疑惑とかを個別に書き出しておかないと、何回も同じ理由で使わなくなったり、忘れて再び使ったりするという愚かなことを死ぬまで続けることになる。これはいけないね。あと長くても30年くらいしか残りがないっていうのに。無能なエンジニアどもに、俺みたいな桁違いの IT 人材であるばかりか、それに加えて哲学者でもある人間が振り回されるなんて、馬鹿げた浪費だ。

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