Scribble at 2023-09-08 11:26:30 Last modified: 2023-09-09 23:21:19

総論として言えば、本の読み方なんて他人に指南するようなものではないと思うのだが、しかし各論としては優先順位について幾つか書いておくほうがいいだろうと思う。あまりにも概括的だし正しいとも限らないので、そう真剣に受け取る必要もないとは思うのだが、全く話題にしたこともなければ考えてみたこともないという人はいると思うので、大半の方は馬耳東風で構わないが、初めて目にする話題や議論だと思う方には何かの参考としていただきたい。読書家や一定の学歴がある人は分からないだろうと思うが、色々な経歴の人達と色々な職場でアルバイトなどをしてきた経験から言うと、そもそも1年のあいだに本1冊どころか雑誌すら手に取らない人だっているし、そういうもので何かを知るとか学ぶ必要を感じない人も多い。そして、何かのきっかけで調べたり学ぶ必要を感じたときに、さてどうしたらいいか途方に暮れてしまう人だっているのだ。

まずここで取り上げておきたいのは、書籍やテレビ番組やビジュアル・データなどの「メディア」と大雑把に呼ばれている情報媒体を利用するときの優先順位である。そもそも、メディアを利用するにあたって優先順位がある(べきだ)という話題すら、初めて目にするという方もいよう。そこで、こういう優先順位をつける必要があるかないかを最初に議論しておく。

一口にメディアとは言っても、ご承知のように色々な種類があるし、媒体としての伝達手段も色々ある。印刷された出版物だけを考えてみても、書籍、雑誌、チラシ、ポスター、それから水道工事業者やデリヘルの広告ステッカーも印刷媒体の一部だろう。これらが異なる目的や事情で制作・頒布されているのと同様に、僕らも色々な目的や事情で本を読んだり、バスの車内に掲示された広告を眺めたりするわけだ。それから映像媒体についても、ニューズ番組から大河ドラマ、あるいは映画館へ足を運んで眺める映像だとか、自宅で「鑑賞」するアダルト・ビデオにしても、色々な人たちに向けて制作されているし、観る側も色々な目的や動機で眺める。もちろん、ここでは視覚を利用したメディアの話だけをしているが、食品の香りからアロマ・エステなどという臭覚の話も含まれるし、ビジネスを取り上げるポッドキャストから視覚障害者向けの朗読 CD も含まれる聴覚の話もしても構わない。要点は、色々と違いがあるという事実を理解することだ。

違いがあると、人は自然とそれらを一定の基準や目的にしたがって分類するものであり、それは基準や目的が妥当である限りは許容していいことだろう。そして、それらの分類について、もし無駄なものとそうでないものとか、優先順位という基準を設定して良いなら、その基準なり優先順位について設定したり語ることにも意味や効用があろう。一例を挙げてみる。

僕は数日前から、自宅に所蔵している文庫や新書といった手軽な本を整理したいと思って、だいたい1日に最低でも2冊ていどは、ノートを付けながら(付けないものもあるが)、読了した本をダンボールへ入れている。ダンボールがあるていどいっぱいになったら、いつものようにノース・ブックセンターという業者さんへ引き取ってもらっている(かなり良心的な評価で買い取ってくれるし、買い取れないものは代わりに寄付したり処分してくれるので、あまりいいことではないが一種の廃品業者としても利用している)。ここで、どういう本を優先して読み、処分すればいいだろうか。もちろん、いまから述べることが正解や常識だとは思わないが、一つの考え方として、「情報を取得する本(学ぶ本)」と「字面と描かれた内容そのものを味わう本(味わう本)」とに分類して、もう僕らのような年齢になると後者はよほど重要で読みたいというわけでもなければ、そもそも目を通さずに売り払ってしまおうという基準をつくった。ここで急いで注意しておくべきだろうが、このような分類をしたからといって、自動的に「じゃあ小説は『味わう本』だ」などと言えるわけではないということだ。小説から、それが書かれた時代の風俗や考え方を学ぶという利用目的はありえるし、どれほど有名な哲学者が書いた古典的な本であっても、はっきり言ってショーペンハウアーの読書論のように読み流してしまえばいい(いまならブログ記事にでも書けばいい)というていどの本もある。こんなことは哲学者であるかどうかとは大して関係のないことだが、こういう分類に「悪い意味でのアカデミズム」や「悪い権威主義」を持ち込んではいけない。たとえ何時間かの読書とは言っても、自分の人生の一部を使うことに変わりはないのだから、他人が勝手に作った大して正当な根拠もない区別や権威を基準にして物事を分類する必要はない。自分が必要とすることや自分自身の事情や動機にしたがって分類をすればよいのである。

ただ、そうは言っても、僕が優先して読んでいこうとしている本に対して「味わう本」と分類されるような、読まずにそのまま売り払ってもよい(というか、残された人生の時間から言って仕方ない)と思える本に、小説やルポやノンフィクションが多いのは事実だ。そして、こういう分類をするからといって、僕は小説を読む必要がないとか、ルポは読むに値しないなどと思っているわけではない。単純に、家の蔵書を減らして精神衛生なり本当の衛生環境を改善するには、物理的に本という物質を減らさないといけないので、そのための優先順位をつけているだけのことである。よって、小説については「こういう作品を一度は手にした」という事実をどこかへ書き留めておいて、手に取る動機や余裕ができたら読みたいし、読んでもいいとは思う。

具体的に例を挙げると、次に読むべき本として(別に自慢でもなんでもなく)山のような蔵書から何冊か文庫や新書を取り出してきたのだが、いま述べたような基準で分類すると、

・青沼陽一郎『帰還せず:残留日本兵 六〇年目の証言』(新潮文庫、2006)

などは、興味深いけれど「味わう本」に分類する他にない。これを歴史の情報とか勉強の本として分類してもいいし、その是非を言うつもりはないし、第二次大戦なり戦争というものについて本書が些末な読み物の一つでしかないなどとは思っていない。でも、これを読んでいないからといって何か本質的な判断や想像や認識を致命的なレベルで間違えるリスクが極端に高くなるかと言えば、それはないだろうと思う。そして、そういう判断に僕は一人の大人として、社会人として、それから哲学者としてコミットする(つまり、この本を無視することによって何かを間違えたと言える明白な事例があれば、その責任をちゃんと取るということだ)。したがって、僕のいまの基準では、この本は残念ながら手放すべきである。

と、こういう判断を1冊ずつやって(こういう判断をわざわざ下すということも、著者や出版社に対する一つの礼儀であろう)、どんどん読み進めるなり処分するなりして、今年中に「数百冊」と言えるていどは片付けたいと思う。別に何かの病気になったとか、何か気味の悪い自覚があるというわけではないのだが、そろそろこういうことを真剣にやらないと、いくら博士号もなくてプロパーにもなっていないアマチュアだからとは言え、自分であるていど満足のゆく成果を挙げずに生涯を終えるというのも癪に障るというものだ。

そして二つめの考え方として、体系的な内容の概論を読むなら、本当に概略だけを知りたい分野に限るべきということだ。その分野という特定の観点とかものの見方や脈絡を、全く知らないのと知っているのとでは大きな違いがあるという想定なり仮定なり見込みがあって、しかし詳しく学ぶ必要や時間はないというものは、概略を解説した本を手早く通読すればいい。その場合、本当に「手早く」読めばいいだけなので、その分野に特有の切り口とか脈絡とか用語(専門用語一つで、その分野の特徴をつかめる場合もある)が分かれば良いのだから、はっきり言えば流し読みで構わない。1冊で250ページていどの新書なら、30分もあればいい。「これだ」と思うようなポイントが二つか三つでも掴めたら、それを書き留めておけば十分である。そもそも、そんな体系的な内容の本(つまり、殆ど知らないことばかりの本)を初心者が暗記なんてできるわけがないし、サヴァン症候群の患者でもないのに暗記しようと試みるべきでもないのだ。そういう本は、自分が知らないことが「ある」という自覚ができれば半分の目的は達したと考えて良いのであり、もう半分は参考文献とか、関連する分野や知識との繋がり方が何かあると分かればいいのである。よって、一例を挙げると、

・友野典男『行動経済学』(光文社新書、2006)

のような本は、行動経済学の通俗本としては現在でも評価の高い良書だと言われているし、僕もそうだと思うけれど、しかしこの本の概括的で総覧的な内容は、一度や二度の通読で暗記したり全てを理解できるものではない。そして、そもそもそんなことを目的にしてはいけないのである。なぜなら、こういう体系的な内容の概論的な新書や文庫というものは、簡単に言えば書いた本人ですら全てを覚えていないほど詰め込んで書かれた本だからだ。プロパーでも、「ああ、聞いたことがある」というていどしか理解していない項目だってあろう。いわんや素人や学生が全て記憶しようなんて、端的に言って無駄だし、その(思想的、あるいは学術的な)価値もないのである。こういうものを暗記しているというだけの人間がノベール賞を受けたり、アイビー・リーグの研究者になったりするわけではない。よって、この本がどういうアプローチや観点で経済を説明したり理解しているのかが分かればいいし、更に詳しく学ぶならどういう本を読めばいいかが分かれば十分なのである。

無論だが、しっかり学んで自分自身の考えや理解の原則に色々と当てはめて考えたいというテーマや分野の本であれば、丁寧に読んで、更に色々な概論や入門書に読み進んだらいい。そのための鳥羽口として新書や文庫を利用していけないわけがないのだから、そういう内容や目的で読むなら、1冊を通読するのに1週間かけてもいい。ちなみにだが、先の『行動経済学』でも多くのページを割いている「プロスペクト理論」にしたところで、実はそう強力な根拠がある学説でもなく、実際には後から数多くの批評や反例が出てきている。経済学についてすら多くの議論があるのに、こういう心理学もどきの経済理論は、どれほど立派で格好いい数式を使った通俗本がいくつも出回っていようと、やはり眉につばをつけて読むべきであろう。

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