Scribble at 2024-04-06 15:20:09 Last modified: unmodified

ここ最近、とにかくまず差し当たって何も考えないままでも、自分の感想を言わなきゃいけないといった強迫観念のある人が増えているように思う。無理やり何か言わなきゃいけないかのような抑圧を感じたり思い込みがあると、やはりイージーな解決手段としては、どうとでも取れる言葉を使うというのが常套手段だ。つまり、このところ色々な場面で「もやもや」などと言っているのがそれにあたる。

もちろん、人がやることの多くは是非を簡単に判断できるものではないし、判断するにも情報や学識や判断力あるいは判断しようという動機やインセンティブがない(と思っている)凡人が何か言うならなおさらであろう。そして、世の中で起きることの大半は、もちろん宇宙の規則性が凡人に最適化されている(fine-tuned)わけでもないのに、幸運なことながら、まさしく凡人の判断で穏当な立場を維持できるようになっているがゆえに、なおさら多くの人はそういう態度を選びがちとなる。

したがって、「もやもや」などと言われる方が気味悪いと感じてしまう者がいても、それだけでは凡人の態度や感受性(のなさ)に対して、必ずしも supremacy があるという証拠にはならないわけである。単に世間擦れしていない未熟な人間の安っぽい正義感とか、何かのコンプレックスにもとづく意識高い系のような錯覚、あるいは端的に言えば自意識だけが動機になっていたりする場合もあろう。

僕が思うには、社会科学の理論を考案したり、公共政策の的確な立案や実施が難しい理由の一つは、こういうところにあるのだろうと思う。よって、ここ最近の社会科学が、社会学から経済学にいたるまで、認知科学や心理学の成果を活用していることには、それなりに妥当と思える理由があろうと思う。ただ、すぐに何か劇的な変化が生じるかと言われれば、それは難しいであろう。なにせ、社会科学の大半は「実験」が難しいからだ。金融や犯罪や教育といったテーマについて、失敗してもよいなどという条件で実験的な施策を試みることは難しい場合が多く、フリードマンのような人でなしのリバタリアン経済学者が途上国の独裁者と悪魔合体してメチャクチャな経済政策を実行するといった、決して褒められない事例しかチャンスがない。まぁ、教育に関しては、この国でも文科省という掃き溜め省庁で東大の落ちこぼれどもが毎年のように実験的な施策を色々とやっているようだがね。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook