Scribble at 2023-03-26 10:30:59 Last modified: 2023-03-26 10:37:56

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2004年、著作権法違反「幇助」の容疑で京都府警が金子を逮捕し、起訴した。P2Pユーザーが民事訴訟を起こされる事件は世界中で起こっていたが、その開発者を刑事訴追した事件は、これが世界初だった。その影響は大きく、日本のP2P開発は壊滅した。

Winny事件が日本のITイノベーションを殺した

僕がブックマークしたときは 52074831.html というファイル名だったのだが、なぜかロール・バックしたファイル名で記事を公開しなおしている。何か書き直した内容に不備があったのだろうか。それでも、僕がこの手の記事に言いたいことは同じである。

僕が昔から、それこそ10年以上は前から、当サイトでも SNS でも公に書いてきたことなのだが、規制とか法律によって「クリエーティブ」とか「イノベーション」が邪魔されたり破壊されて、先進的な技術とかサービスが展開できなかったという、本来なら「悪魔の証明」が必要になるようなことを平気で言い続けるわけだよね、リバタリアンというのは。あるいはアメリカで言う共和党のように「自由」を叫ぶ保守と親和性があるので、リバタリアンと保守、それから自分に都合が悪いことをなんでもかんでも反対してみせるポピュリストなんかも、或る意味では仲間みたいな見てくれになる。こうして、オンラインではリバタリアンとネトウヨとポピュリストとかが大同連合して規制に反対し、個人情報の保護に反対し、結局は刹那的ともいえる消費や感情でしか動かない子供の需要に応えて、彼らに最適化されたサービスや技術を「クリエーティブ」だの「イノベーション」だのと囃し立てる。制度として何が望ましく適正であるかという議論を、ただの子供と大人の口喧嘩みたいな話に引きずり落とすわけだ。

リバタリアンの理屈は常に、「Winny が存続していたら日本に GAFA 級のグローバル企業が誕生してオンライン・ビジネスを支配していた筈だ」という妄想であり、悪魔の証明である。Winny は事実として過去に規制されたし、これを開発した人物も既に死んでいる。既に確定している過去の事実を否定する counterfactuals という議論は、もちろん僕らのように分析哲学や科学哲学を履修した者にとっては定番と言える話題なのだが、正直なところ単純な記号論理学の理屈だけで言えば、前件が偽であれば後件の真偽は問われないので、この手の議論は後件として起きている事柄(GAFA 規模のサービスや企業があること)を真と仮定したときには、逆に条件法が真であるために前件が真でも偽でもいいのであるから、論理的な議論などする必要がない。それでも counterfactuals を持ち込む人が昔からいるのは、彼らがともかく条件法と因果関係を取り違えるからなのだ。詳しくは PHILSCI.INFO の論説や落書きでも書いているので、そちらを見ていただくとして、ともかくこの手の議論は科学としても、それから哲学としても真面目に取り合う必要がないと思っている。

もし Winny があったら人類は不老不死を手に入れていた筈だとか、もし Winny があったら BTS じゃなくて AKB48 がアメリカの音楽業界を席巻していたはずだとか、もし Winny があったら池田信夫はパソナの取締役になっていた筈だとか、何とでも言える。ガキは妄想が好きなので、この手のファンタジーを振り回して現在の閉塞感に反感をもっている若者の幼稚さに訴える、いわば「売れるお話」を書きまくって儲けることができるし、同じく若者の幼稚な思考を利用しているゲーム業界や出版業界などから珍重される議論なので、続々と本が書ける。でも、こんな議論に学術的なレベルでの妥当性なんて何もないことは、僕らのように大学院の博士課程にまで進まなくても、単に社会へ出てお金を稼ぐようになったり、あるいは大人になって守るべきものをどうやって守るかが分かれば、バカでも知ることになるのだ。リバタリアンの理屈に乗っかっていれば、自分自身の生活や権利すら守れなくなるのである。よって、多くの若者の刹那的と言える思考は、やはり大人の僕らからみれば自己欺瞞であり、自分で自分を貶めているのである。

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