Scribble at 2023-04-24 09:08:08 Last modified: 2023-04-24 15:27:09

Vaunty 氏を始めとして、ここ最近は自ら作詞・作曲・編曲・MV制作・ジャケット制作を一手に手掛ける人物が「天才」として持て囃されている。芸能でも DevOps やらフル・スタックやらと同じく、多芸であることそれ自体が一つの芸であると見做されるのだろう。もちろん、古くから僕らは「器用貧乏」という言葉を知っているし、最近でも「ワンオペ」という言葉を得た。一つ一つの成果について、本当のところ評価の尺度なんてまともなものを持っていない人々からすれば、芸能人が AfterEffects や DTM という道具を使えるだけで何か一つの才能であるかのように思えるのかもしれない。

だが、冷静に考えてみてもらいたい。音楽を自分で作ろうという人間が、詞だけとか、曲だけとか、あるいは編曲だけしたいなんて動機を持つ方が、そもそもおかしいのである。もとより音楽を自ら手掛けようという者は、商業的な基準で言って作詞や作曲や編曲あるいはディレクションやプロモーションでもいいが、それらの中でどれか一つの才能に専心しているだけのことだ。他の商業的な業務に該当する多くの職能は、できるかもしれないが不得手だったり、あるいは専念したい作業に時間や労力を使えば自然と他人へ委ねるようになるのが「産業」としての芸能というものである。

一つの成果物を手掛ける、そして他人に販売したり利用してもらうには、どういう品物やサービスであれ数多くの職能なり作業を必要とする。それぞれの仕事が別個の専門的な業務なり職能として、高い技術や多くの知識あるいは創造力などの才能を必要とするわけではない。なぜなら、仕事というものは基本的に凡人を基準に実務上の決まりや手順や評価基準が作られているからだ。天才しか仕事に携われないか成果を受け取ってもらえないなんて業種は、本当は成立しない。なぜなら評価する側にも才能がなければ、誰が本当に天才なのか分からないからである。絵画や書道や音楽などといった「アート」の世界は天才しかいないように思えるかもしれないが、少なくともプロのデザイナーや音楽雑誌の編集者として幾つかの分野で商業的な成果物の制作業務やプロモーションに関わってきた経験から言って、凡人であるみなさん(僕もそういう分野については凡庸な才能しかないと思うが)が思っているほど「天才」と言いうる人物はいない。非常に申し訳ないが、どれほど若者が絶賛したり「天才」だと口々に言っていようと、たぶんあと5年もすれば既存のアーティストと同じく、スマートフォンのフォルダに何曲かの MP3(しかも中国のサイトから違法ダウンロードしたファイル)が入っているというていどの存在になると思う。

もちろん、一つの理由は分かりやすい。凡庸な人間、しかも音楽を聴くという経験そのものが大人に比べて少ない子供や若者は、自分にとって理解可能でありながらも新規なものを高く評価する。理解できないと新しくても評価されないのは、新しいジャズやクラシックの曲が流行し辛いという事実で明らかだし、理解されても新規でなければ評価されないのは、分かりやすい曲でも演歌の曲が流行しないという事実で明らかだ。すると、理解不能となるか新規に感じられなくなるワンパターンになれば、もうその人物の曲はコンビニエンス・ストアの店内でかかる BGM みたいなものになってしまい、さほど何も感じなくなる。そして、たいていの「天才」だろうと多彩なアーティストだろうと、そのときに売れた客層に最適化した作品を作り続けている限り、後の世代の若者からは理解不能となるか凡庸な音楽と見做される運命にある。常に新しい世代から評価されるような音楽を作り続けるなんてことは、バッハだろうとビートルズだろうとできた試しはなく、そもそも商業的な音楽であろうとマイナーなアマチュア音楽だろうと、自分のやっていることが他人にちょうど評価されるかどうかを前もって予想して何かを作るなんてことはできないのである。

「天才」がいずれ過去のものになる他の理由として、ミスマッチだけではなく、単純に才能の枯渇もある。しかし、よく「才能の枯渇」と言われるが、その多くは実際のところ厳密あるいは妥当な基準を持つ人々の評価にもとづいているわけではなく、しょせんは多くの凡庸な消費者やプロデューサーや芸能事務所の評価を下地にしているのであるから、そのような評価の多くは絶対評価ではなく常に相対評価であるにすぎない。つまり、僕らよりも絵を描いたりピアノを弾いたり歌うのがうまいというだけのことなのだ。よって、これも一定の数の成果を得て評価の基準が上がると、現在の消費者であろうと未来の消費者であろうと誰からも評価されなくなる。

もちろん、数多くの「天才」とか「新進気鋭の何とか」というフレーズを振り回すプロモーションの多くが、単なるホロー効果を応用した愚劣な宣伝にすぎないという事例も多い。先週の夜に父の家で観た明石家さんまの番組では、「東大生」が認める「天才」のリストを紹介して、もちろんそれぞれの分野で大きな成果を挙げている人々ではあるけれど、事実から冷静に考えたら全く当てにならない。そもそも東大を卒業した人間の何割が現実に我々の暮らしを豊かにするような企業の経営者や社員になったり、まともな業績を出した研究者や政治家や官僚になっているかを見れば、他の大学に比べたら割合や数は多いにしても、その大半は実際には単なる受験秀才にすぎない。あれを知ってる、これができる。それはいい。でも、歴代の天皇や徳川幕府の将軍や電通の社長の名前を全て暗記してるからなんだというのか。確かに大谷翔平は野球選手として偉大なプレイヤーとして歴史に残る人物だと思うが、結局のところ野球に関心がない人にしてみれば、ただの「すごい記録を作って金を稼いだ人」でしかない。どれほど偉大な記録を残したり何百億円のギャラを手にして有名になった人物であっても、隣に住んでいるかもしれない人の生活を助けてくれるわけでもなければ、その人の親の癌やイボ痔を治せるわけでもないのである。

よって、これは哲学においても昔からある議論なのだが、そろそろ無闇に「天才」という言葉や観念を振り回して人や仕事や分野などを評価したり、そこに疑問を挟むことは許されないといった聖域にしてしまうのはやめるべきではないかという気がする。もちろん、これは凡人が才能ある人々を評価する基準を放り出して、下方圧力を強くして悪平等にするためのアイデアなり動機、要するに「やっかみ」と言われる感情で強化されやすいので、実際には発案の仕方も実装も慎重を要するのだが、我々の社会にとって切実な効果があって必要とされるのは、実は理解できる奇抜さや新規の成果を「天才」だとイージーに弄ぶことではなく、われわれ一人一人にとっては理解不能であろうと平凡な成果をどうやって評価するべきかという知恵の方だと言いたい。

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