Scribble at 2023-06-06 07:54:44 Last modified: 2023-06-06 08:02:31

2005年前後に『国家の品格』だの『バカの壁』だの『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』というヒット作品が続出したことから、新書のレーベルを創刊する出版社が相次いで「新書ブーム」などと呼ばれるようになった。もう20代以下の人たちには通じなくなっているが、あのわれらが元ライブドア取締役の Perl 書きのお兄さんや、宮崎何某という仏教徒を自称する通俗作家などがマスコミで「新書ブーム」を煽り、イージーな付け焼刃の情報でも膨大に集めたら一つの「教養」になるなどという話が堂々と語られていたわけである。

しかし、もちろんこんなバカ話は当時ですら出版業界人自身によって否定されていた。つまり、新書の出版点数や売り上げは特に2000年代中盤から劇的に増えてはおらず、たとえヒット作品があったとしても、活字離れという逆のトレンドによる影響を差し引けば大して業界全体の市場規模に影響はないという冷静な分析が既に10年以上も前に新潮社内で出ていたという(新潮新書メールマガジン72号)。

そして、彼ら暇な読書家や物書きの煽りには重大な但し書き(条件)があり、上記でも述べた通り「膨大に集めたら」一つの「教養」になるという希望的観測には多少の説得力があるとは言え、そんな条件を満たせる人なんて、彼ら自身のように莫大なお金と暇を持て余している物書きだけだったりするのだ。しかしそれでも、たとえば中公新書を全て読破すれば「教養」になるかと言えば怪しい。そもそも、「教養」に満足のゆく定義などないし、そうした膨大な読書の成果や結果で判断するなら、もちろんだが古今東西の記録として、そういう膨大な読書の末に何事か大きな業績を成し遂げた人物など一人としていないのは動かぬ事実である。読書家であった偉人やノベール賞の受賞者は多くいるが、彼らは多読や速読ゆえに業績を打ち立てたわけではない。そんな暇潰しで成し遂げられる成果なんてものは、せいぜい情報量の多いコタツ記事であろう。

この根拠は、物事の道理を考えたら明白だ。新書の多くは事実や事項の中途半端に詳しい説明にすぎず、それらを説明するための学術や技能や業界知識という「体系」を説明していないからである。体系的な知識や技能を欠いた些末な情報を膨大に蓄積したところで、それは ChatGPT と同じで体系的な知識やフレームを確立していない、未整理のデータベースでしかない。人がデータの記録媒体になったところで、ひとりでに学術や知識や理論や思想が生み出されるなんていう魔術は、この宇宙に存在しないのである。

よって、新書をどれほど読破しようと、そもそもそういう書物を手掛けられるための学問とか技能とか経験を欠いたままでは、推論や考察の残滓として書き留められた情報を集めているにすぎず、たとえ元ライブドア取締役や、信州に書庫専用の別荘まで建てたという元エンジニアだか元ゲーム作家だの「思想家」のように莫大な量の(新書ですらない)書籍を読破していようと、できることなんて「新書ブーム」を煽る文化芸人になることくらいしかないのだ。

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