Scribble at 2023-11-26 14:09:54 Last modified: 2023-11-27 08:12:55

さきほど、『科学哲学』(日本科学哲学会発行)を受け取った。あいかわらず大半の投稿論文が「科学哲学」というよりも「分析哲学」・・・とすら言えないような、なんだか趣旨のよく分からない、ただただテクニカルなだけの雑談みたいなものになっていて、まったく哲学的なインサイトを感じない。僕が神戸大学でお世話になった森匡史先生は、少なくとも僕が博士課程に在籍していた頃は退会していなかったけれど、もうそろそろ日本科学哲学会は退会しようと思うと口にしていた。

或る研究分野を国内で確立するということは、つまり大学で専攻する学科を設けたり、書店で「科学哲学」という棚が作られたりするということでもあり、かなり通俗的ではあるが社会科学的に一定の効用がある。似たような関心をもつ人々の食い扶持を確保できるし、一定の分野として認められていると科研費の申請においても文科省の役人といったバカどもに分かりやすい。そういう効用を得るために、同じ志向なり関心なり性癖をもつ人々が集まって、学術的な成果を得るという純粋な目的だけではない一定の効用を求める手段として、「学会」つまり学術研究を目的とする団体結社を設立することには、意味がある。しかし、もちろんそのようなことは哲学的に言って学術研究をこととする者にとっての義務でもなければ学術研究の必要条件でもないのであり、学会がないから、科研費が通らないからこれこれの研究ができませんというのは、莫大な予算を必要とする実験系の学科ではともかく、哲学においては(一時期の流行だった「実験哲学」の社会実験ですら)理屈になっていないわけである。もちろん、門外漢なり社会と学術研究者との関わりというものは、何らかのアクションによって維持する必要があろう。既に大型書店には「科学哲学」という棚やコーナーがあるから、もう学会なんて必要ないと言っているわけではない。実際には、同じ哲学と言っていても細分化されてくると専門の予備知識や議論の脈絡が理解できない場合もあるため、哲学というコミュニティの内部においてすら「門外漢との関わり」を維持するために、関心を同じくする人々が一定の水準にある成果として認めたという証拠が必要になる。たとえば、大学で教員を採用するときの人事などでは、専門とする領域の学術研究コミュニティが発行する専門誌での掲載数だとか、カンファレンスでの発表回数などは、それなりに重要な評価の基準となる。ただ、これらのことは哲学者として生きるわれわれのような者には効用がないのだから、関係ないといえばない。そして、森先生のように論文の掲載数などをいまさら稼ぐ必要もない方々にとっても、あまり学術研究コミュニティに在籍している値打ちもなくなれば、そこから退出するという考えもあろう。カンファレンスの手伝いとか、査読とかも面倒臭いと言えば面倒臭いわけだし。おまけに、日本科学哲学会は「科学哲学」という言葉を使ってはいても、その実態は分析哲学、いや「分析哲学」と呼んでいいかどうかすら不明の、冒頭でも述べたような科学や技術に関わるテクニカルな議論なども受け入れている。よって、もうすでに当学会(僕は評議員の選挙権をもつ正会員なので、こういう言い方ができる)の内部でも、「部外者」との関わりをあれこれと考えなくてはいけないような状況となっている。僕が先ごろ受け取った最新号の『科学哲学』には、統計力学の歴史について書かれた本を取り上げた、はっきり言って書評とは言い難い論説が掲載されているけれど、あれをそもそも読み進められるていどに物理学や科学史の素養をもっている学会員は 1/5 もいないと思う。もちろん、だからいけないと言いたいわけではないが、そういう実態にあって、いまさらインターネットがあるのに同好の士を見つけるだの議論を交わすだの、もはや学会はそういう場所でもなかろう。

最初にこの投稿を書いたときは、ここまでを省略したので、なんのことだか分からない方もおられたと思う。

科学哲学を専攻していて量子論、量子力学について殆ど言及していないというのも変な話ではあるが、科学哲学を専攻しているとは言っても、理数系の話題について何でも語るべきことをもっているわけではない。もちろん、高校生の頃にブルーバックスで幾つかの入門書を読んだり、学校の図書館で『日経サイエンス』(当時は日本語版も Scientific American というオリジナルの雑誌名のままだったが)を読み漁っていたりした頃から、それなりの素養は得ていたつもりだ。ただ、そんな雑読で身につく素養なんてものは理学系の学部レベルにすら及ばない編集工学おじさんのクソ蘊蓄みたいなものと同じだ。何事か他人に語って見せるような見識など、積み上げられるわけもない。ただし、科学哲学という自分自身の専攻分野で見かける議論などから察するに、あるいは素養が足りないなりに物理学の棚を眺めていて感じることもある。

たとえば、しばしば量子力学の「奇妙さ」だの「非常識さ」だのを、やたらと強調する通俗本があって、僕はあの手のパフォーマンスには殆ど関心がない。実際、彼らの大半が自分自身の感じている奇妙さを何十年も放置して一向に解消しようとしないという重大な過失だけでも非難に値すると思っていて、無能な物書きたちがこぞって悩んでいる姿など、永久に分からないと悩むパフォーマンスを見せて小銭を稼ぐだけの、日本の出版業界によくある自作自演にすぎない。(科学)哲学者としてというだけではなく、一人の社会人としても、そんなものはどうでもいい。

ここでは、些細なことでも分かることを指摘することから始めておこう。手始めに、バカが書いていようと称賛するべき業績を上げた物理学者が書いていようと、たとえば光のような現象を「粒子と波動の二重性(英語では "wave–particle duality"、つまり波と光の二重性と表現している)」というフレーズで解説するときに、誰がどう解説していようと圧倒的に複雑なのは、粒子よりも波としての挙動だ。そして、wave–particle duality において最も難しいのは、粒子や波としての挙動を説明したり理解することではなく、この二重性そのものであるという点にも注意が必要だろう。

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