Scribble at 2023-09-10 08:51:13 Last modified: unmodified

いま、文庫と新書を手早く整理したり片付けようとしているわけだが、手に取る本の多くがアメリカの歴史だとか色々な差別の話題を扱っていることに、改めて幾つか考えさせられる。やはり多くの人が簡単に読んだり手に取る機会がない本だとか、そもそも英語で読めないとか、あるいは関心がないという事情はあろうから、誰にでもすぐ役に立つなんてことは無理なのだが、もし機会があって検索したときに殆どまともなリソースがないというのでは困る。そして、見つかったとしても大半が書物の宣伝だったり商品情報だったり、あるいは些末で程度の低い中学生の読書感想文(「瑣末で程度の低い」は、「読書感想文」ではなく「中学生」に係る。僕らは中学生の頃には大半の凡人の大人よりまともな読書感想文を書いていた)しかないということでも、調べている人を困惑させるだけであろう。

確かに、「それなら『ウィキペディア』の記事を充実させたらいいだけだ。どうして継続性もなく他人の協力を仰げない自分のサイトで記事を書こうとするのか。それはただの承認欲求ではないのか」という疑問や反論はあろう。しかし、このような反論には幾つかの思い込みがあると思う。第一に、個人のサイトよりも『ウィキペディア』の方がウェブサイトの運営なりオンライン・コンテンツとして継続性が高いという保証はない。仮に Internet Archive が両者よりも継続性が高いと言えるなら、ここにコンテンツをキャッシュしてもらえば、どんな個人サイトであろうと少なくともコンテンツの継続性は Internet Archive というサービスが継続するか限りは維持できる。そして第二に、複数人が編集するからといって記事の質や量が充実するという保証はない。CGM サービスは複数人が参加できるというシステム上の仕様はあっても、個々のコンテンツを複数人が編集したり、複数人で議論するという保証などしていないし、そんなことは原理的にもできない。また、仮に複数人が編集するとして、それらの人々が誤った情報や思い込み、あるいは何らかの政治的な意図や悪意で記事の内容を歪曲したり、それから loaded language などのレトリックを多用して特定の印象を与えるように文章を操作しないという保証はなく、そうした記事の編集を管理する人材が間違いや悪意や誤解に気づくという保証もないわけである。これは僕の持論だが、インターネット全体についてですら、有能で、何か情報を出して然るべき人物がものを書いているとは限らないという意味で、情報リソースとしては非常に不十分なものだと思っている(だからといって、そういう人々に強いてものを書かせるわけにもいくまい)。いわんや、特定の言語で書かれている、特定のサービスに登録している人物だけが集まって編集するコンテンツなんて、たいていは不十分で、未熟で、偏りのある内容が多く、実際に多くの学術研究者や各業界のプロフェッショナルが指摘したり侮蔑するように、『ウィキペディア』は素人の掃き溜めでもある(もちろんそうでない記事や分野もあろう)。まだ「るいネット」よりはマシだが、あれに近い、学者の真似事をしたいだけの不見識なゴロツキが集まった寄せ書きみたいなコンテンツも多々ある。それから第三に、僕が当サイトでも公開したいと構想している幾つかの話題は、簡単に言えば差別や福祉という書き手の見識や態度や節度を問われるようなテーマがあるため、『ウィキペディア』のような、編集上の規則によって個人の意見が削ぎ落とされる(その是非は議論しない)メディアに適していないと思う。少なくとも、僕がものを公に書いていくらかでも貢献したいと考えるテーマについては、僕自身の保守(まだ正確な表現は決めていないが、敢えて言えば "anthropic conservatism" とでも言おうか)という立場でどう理解し考えているかも重要な論点になるため、中立な記述は必要だが、僕自身の意見を削ぎ落とすような編集は許容できない。

ということで、これから予定している幾つかの論説は、たとえば Nat Turner だとか、あるいはジャーナリストの Timothy Thomas Fortune であるとか、それから日本でもアイヌだとか水平社だとか、そういった話題も扱うかもしれない。もちろん、虐げられていたという意味では右翼とかを取り上げてもいい。そもそも、差別にかんする研究で圧倒的に不足しているのは、「なぜ人を罵倒すると愉快なのか」とか、「どうして人を差別するとスッキリするのか」という、喜んで人を差別したり、差別したくなってしまうようなメンタリティの研究だ。こういう、誰にでも起きる可能性があることに取り組まないと、これみよがしに公道で「差別はんたーい!」などと叫んでプラカードを振っているだけでは何も変わらない。

ちなみに、これは僕が哲学について説明するときにも同じことを言っているのだが、哲学も或る状況で人がものを考えたり悩んだり興味をもつという chance の話なのであって、紀伊國屋書店の「哲学」という書棚に置いてある本を読んで「中動態がどうのこうの」などと自分に何の関係もない話にかかわって知的生活を送っているかのような錯覚に陥る、いわば脳内コスプレなんてものは、何千冊の本を読もうと何の役にも立たないのだ。或る状況で或る人がものを考えようとするときに(もちろん、そういう関心が持続しなくてもいいし、それから死ぬまで全く関心をもたなくなることすらあろう)、そこで何をどう考えるかというチャンスに貢献できるかどうかが哲学の効用というものだろうと思う。よって、哲学と称してクリシンを教えているような講義もあるが、そういうアプローチは必ずしも間違っているわけではない。

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