Scribble at 2022-03-17 13:14:04 Last modified: 2022-03-18 15:38:35

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閑吟集と並んで、我国中世の先達の「魂の響き」であるこの今様が、出来得るならば、当時の形で復元されることを切に望んで已まない。

舞へ舞へ 蝸牛(かたつぶり)~など古雅な 今様(いまよう)歌謡 を所収する梁塵秘抄 ・ ・ ・ 我国中世の先達の「魂の響き」であるこの今様が、古来の形で復元されることを切に望む

アマゾンのカスタマー・レビューについては、その運用とか掲載の可否について方針がよく分からない。その一例として、上記のレビューを紹介したい。上記のレビューで評価されている本は、後白河天皇が12世紀末に編纂したとされる『梁塵秘抄』という歌謡集を活字化して、書き下しや現代語訳や解釈を合わせた「コンメンタール」のようなものだ。こういう著作物を具体的に何と呼べばいいのか、よく知らない。訳や解釈、それから幾つか底本や異本がある場合は選択なり文字の解読なりは、もちろん編者によって内容が違っている。だから、違う編者の著作物は、同じく『梁塵秘抄』と題していても内容が違う。こんなことは、『源氏物語』だろうと海外の著作物だろうと古典を読んでいる人にとっては、いちいち説明しなくてもいいだろう。

問題は、『梁塵秘抄』というタイトルで発売されている大半の著作物に、上のレビューが一字一句たりとも違わずに掲載されていることである。古典の翻訳や注釈本は、編者が違うなら内容が違っていて当たり前であり、それらのレビューなら内容の違いについて書くのが当たり前だろう。しかし、この "Marie-Thérèse" と名乗るレビュアーのカスタマー・レビューは、他の人物による『梁塵秘抄』の注釈本にも全く同じ文章が掲載されている。そして、それをアマゾンが「同じこと書いてるだけだろ、おまえ」と言って拒否することが難しいなら、カスタマー・レビューの運用方針には欠陥があると言わなくてはならない。いまざっと調べただけでも、植木朝子(ちくま学芸文庫)、川村湊(光文社古典新訳文庫)、佐佐木信綱(岩波文庫)、西郷信綱(講談社学術文庫)、榎克朗(新潮日本古典集成)と確認して、もうウンザリさせられるから途中でやめたが、恐らく『梁塵秘抄』と題する書籍のすべてに、この "Marie-Thérèse" と自称する人物のレビューが投稿され掲載されているのだろう。

なんでこんなことになるのか。一つの理由は、この "Marie-Thérèse" なる人物が意図してそう書いていると思うが、このカスタマー・レビューが『梁塵秘抄』の紹介しか書いていないからだ。収録されている歌を紹介したり辞書的な解説を並べているため、門外漢から見れば専門家か、もしくは詳しい人物のレビューだという錯覚を起こさせるに足りる巧妙な文章というわけである。しかし、実際は国文学の教科書からコピペしたような一般論であり、個々の著作について編者がどういう読み方や訳の方針を採用したかという、まさに個々の著作物についてレビューするべきことが何も書かれていない。極端な言い方をすれば、僕の目の前の空気について「空気には酸素が21%くらい含まれます」と言い、あなたの目の前の空気についても「空気には酸素が21%くらい含まれます」と言ってるのと同じであり、それが空気であればいくらでも同じことが言える。しかも、それは空気に関する一般論でしかないのだから、僕の目の前にある空気とあなたの目の前にある空気について、それらのいかなる違いについても何も教えてくれない。おそらく、100年後にどこかで出版されるかもしれないフランス語訳の『梁塵秘抄』についてすら、カスタマー・レビューとして掲載できるであろう。

こういう、あれこれ書かれていても実は情報量がゼロとしか言いようがないクズみたいなレビューを平気で書いている人々、そしてそれを同じ名前の書籍なら幾らでもコピペするか、あるいはコピペを許容するしかないアマゾンの運用方針というものは、やはり商品を扱う者としての見識に欠けるとしか言いようがない。

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