Scribble at 2024-12-01 08:27:08 Last modified: 2024-12-01 17:42:37
ただいま、ギルバート・ライルの『ジレンマ』(藤澤和久/訳、勁草書房、1997)を読んでいる。もともと分析哲学の本は大して読まれておらず、そもそも世の中に出回っている哲学の通俗本や雑書の大半はプラトンやカントといった、おおよそ解釈の基礎が幾つか既にあるような「鉄板ネタ」をもとに書かれているため、そもそも時代が下るにつれて取り上げられなくなる。俗書で取り上げられない著書は初心者にとってはないも同然である。あるいはケース・スタディ式に時事の話題などへの応用として概念や論争を紹介する場合でも、現代のテクニカルで前提知識の多い議論は敬遠されるため、初等的というよりも単純な議論に限られる。
そういう意味では、『ジレンマ』で取り上げられる「アキレスと亀」の事例は格好の材料となる筈だが、実はさほど通俗本では取り上げられない。もちろん、現代では超準解析などの手法を使ったりすることはあるから、通俗本を書くていどしかやることのない連中が生半可な理解で初心者に向かって説いてみても底が知れているし、敬遠されるだけであろう。また、多くのチャレンジが存在する話題ではあるから、サーベイがおろそかだと「こんな反論も知らないのか」とプロパーからは更にアホ扱いされるだけとなる。場合によっては、他の通俗本で紹介されている議論との比較になったりするため、読者からすれば通俗物書きどうしの中ですら優劣を作られてしまう。それは、その手の連中にとっては好ましくない状況となる。通俗物書きというのは、彼ら同士では論争したり互いに批判しないことで、出版業界での下方圧力を保ち、それはすなわち自分たちが一般人よりも平均して教えるべき位置にあるというポジションを維持するための知恵なのだ。
もちろん、僕はプロパーでも物書きでもないから、そんな出版業界との依存関係など知ったことではない。この国に出版社が一つも残らず消えて無くなっても、いや世界中から消え去ろうと、われわれは哲学できるからだ。もちろんだが、発生論的に言えば、仮に僕が生まれたときに既にそうであったとすると、そもそも哲学という学問があるとか philosophize という知的営為がなにごとかのかくあるものだと知られているという事実はわからないまま成長するかもしれない。したがって、自分が何かを考えたり疑問に感じてあれこれと思案するときに、それが philosophize していることになっているとしても、それは自覚できないし、他人からも「それが哲学するということだ」と指摘されることはあるまい。
でも、それがいったい何なのかというのが、僕の哲学(なかんずく近代以降の制度的な学科なり出版ジャンルとしての哲学)に対するスタンスだ。しかるに、東大暗記小僧の成れの果てとして旧帝大の教授とかやってる多くのプロパーにしてみれば、博士号すらもっていないゴミくずアマチュア風情が哲学者を自称するとは何事かと思っているかもしれないが、それは美大の教授が企業のアート・ディレクターに向かって「君たちはデザイナーではない」と言っているに等しい滑稽な自意識なのである。というか、僕はそういう自意識がないからこそ哲学者(substantially philosophizing person)であると自称しているわけだが。
ちなみに「アキレスと亀」の話をほとんどしていないので紹介しておくと、ライルの論説ではゼノンの逆説になぞらえられる実例が紹介されており、その一つは母親が子供に条件を示してケーキの一部を食べさせるというものだ。ただ、ライルの使っている事例は、登場人物のやるべきことが自然であるように設えられているため、ゼノンの逆説というものの set-up こそが数学的に同値な(そしてたいていは異常な)状況と同じことを要求しているというポイントをうまく表していないと思う。つまり、set-up をわれわれの生活において自然な行為や操作をしている中でパラドクシカルな帰結へと至るように「説明しなくてはいけない」という時点で、われわれはゼノンの意図に嵌り込んでいるのであり、これを言語分析や概念分析で切り抜けることはできないように思う。したがって、僕が読んでいる限り、彼の議論は分析哲学の実例であるだけでなく、そのままそっくり分析哲学の限界を表しているように思う。