Scribble at 2021-11-22 01:04:05 Last modified: 2021-11-22 01:11:20

これは哲学科の学生でも丁寧に調べていないと勘違いすることなのだが、科学哲学という学科は、確かに1980年代くらいまでは分析哲学と区別のつかないところがあった。実際に、日本の「日本科学哲学会」が発行する『科学哲学』という学会誌に掲載される論文も、僕のような博士課程まで進んだ者から見てすら、いったいこれは科学哲学の論説なのかと不可解なものが多い。そして、どこかで読んだ話だが、どうやら日本科学哲学会という組織は分析哲学と科学哲学の区別なり違いについて重要性を感じていないらしい。それはつまり、哲学のアプローチとして厳密に区別する〈哲学的〉に正当な根拠がなく、ただの歴史的な経緯による風習とか慣行のようなものにすぎないということだ。要するに、量子論とか解析学について論じていたら科学哲学であり、ドーナツの穴とか樽に入った脳みそについて論じていたら分析哲学というわけである。

しかし、詳細な経緯をたどっている近年の研究成果を使うと、どうもそれは信用に値しない。言わば歴史的な事実を考慮しない、教科書的な浅い理解とか、あるいは論説に式が登場するといった通俗的で外形的な理解による出鱈目な平準化ではないかと思える。もちろん、これが歴史的な詮索にすぎず、些末な違いを針小棒大に言い立てるだけの話だという可能性はあろう。しかし、僕が思うには狭い意味での分析哲学に比べて、科学哲学は論理実証主義のような一時期のブームと言うべき思潮から始まったと考えるべきアプローチではなく、もっと昔からあるアプローチであり、しかもその成果は哲学のプロパーではなく、哲学していた自然科学者(もっと昔は両者の違いは小さく、また区別する必要はなかった)がもたらしていたと考えたほうがよい。そして、このような科学哲学を理解することにより、現在でもよくある自然科学者の勘違いによる、科学哲学への無用な敵愾心(奴らは科学の方法論だの科学の価値や意味だの科学者の役割だのと称して上から目線で物を言いやがる!)は、まさに無用となるだろう。

しかし、科学哲学に携わっている方が歴史的に正確な経緯を理解していなければ、いつまでも同じことが繰り返される。要するに、無知な者どうしでいがみ合っているだけとなる。そしてバカバカしいことに、どちらも大学教員のプロパーとして、お互いの分野からの専門的な意見として適度に尊重される立場を最初から持っていて公に出版されるところで議論をするので、彼らがお互いに無知であることを敢えて指摘するような人がいない(いや、仮にいても、せいぜい出版された後に、誰も読んでいないブログか Twitter で細々とコメントを書くていどのことだ)。

簡単に言って、科学哲学と言っても、もちろん日本では広井良典氏のような殆ど論理式を使わない議論をしている人も含まれる(というか、殆ど科学そのものの話すら出てこない)。そして、彼を「科学哲学のプロパー」と見做している日本の大多数の出版業界人は、恐らく彼の出してきた医療とか地方行政の研究成果を、いわゆる「科学論」という出鱈目な流行語の一部だと錯覚しているからこそ、何の疑問も持たないのだと思う。結果として、広井氏の業績を科学哲学として分類しても差し支えないという理由は、日本の出版業界の理屈として判断すれば間違っているにも関わらず、彼を科学哲学の研究者だと見做す表面的な結果においては一致しているがゆえに、いつまでも(少なくとも僕が正しいと思う)もう一つの理由において科学哲学を理解するという努力が蓄積されてこなかったわけである。そして、それは大学の授業なり大学で使うテキストなり、そしてもちろん無能が書いている通俗書においては言うに及ばす、その是非について何も疑問に思わない人々が、従来どおりの見方をコピペして回っているのが実情だ。

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