Scribble at 2024-06-20 15:39:16 Last modified: 2024-06-22 21:51:47
雇用形態の問題もあるにはあるが、それ以前に自治体の予算が少ないという根本的な問題を解消することが重要だろう。いまだと、クラウド・ファンディングを活用してもいいし、なんなら学校図書館の名称にもネーミング・ライツを設定して企業から寄付を募るとか、色々なやり方はあろう。とにかく、日本はアメリカと違って金持ちがボランティアに私財を投じる習慣や思想がないので(てめーの寺に多額の寄付をさせる動機付けは巧妙に構築しているようだがね)、公的なところでなんとか解決する他にない。この点、都合のいい自由経済や自己責任論だけはアメリカ人の猿真似をして、しこたま集めた金をぜんぜん社会に還元しようとしない、この国の成金どもが多くのアメリカの金持ちから黄色い守銭奴として差別されるのは当然だろうと思う。この国で CSR と言えば、買い漁った高価な絵画を自分の名前が付いた立派な美術館に集めて展覧会を開くことなのだ。その美術館の入場料にあたるだけの金銭を稼ぐために、多くの家庭が内職で何万個の品物を組み立てないといけないのか想像力がないのである。こういう愚劣な連中は恥を知るといい。
さて、図書館の話に戻ると、もちろん原資が限られている以上は予算の割当を増やすということにも再考を促す必要がある。そのためには、地元の人々が、公立図書館だろうと学校の図書館だろうと、要するに公的な役割を担っている図書館の価値を理解し、そして個々の図書館で十分な仕事をするだけのヒューマン・リソースが必要であることを、改めて理解する必要がある。図書館の司書は、所蔵するべき図書の選定、資産の物品管理や修繕など品質の維持、読書する室内環境のメンテナンス、そして、無知な連中が勝手な判断で蔵書を並べ替えたり処分しないよう守る役割もある。図書館を維持するということは、やはり当該地域の知的水準や情報リソースや文化の一端を保護したり守ることでもある。少なくとも「保守」を名乗るのであれば、特定の本が右だ左だと騒ぐのではなく、公的な原資で運営される図書館制度をこそ保守するべきであろう。
[追記:2024-06-22] 上の話を関連して、次のような報道があった。
https://www.sankei.com/article/20240622-F7MGYMNIWFN4VJW2GBQUQELBMM/
「公共図書館数2118から30年間で3310に増 サービス向上、試行錯誤の知の殿堂」
要するに公共図書館の数は増えても、そこで働くまともな司書が減っていて、言っちゃわるいか大学を出てるかどうかも定かでない臨時雇いのバイトが担ってるわけだろ。それだったら、それこそ外国人の旧技能実習生でいいじゃんという話になってしまう。つまり、公共図書館が増えてるからいいかと言えば、それは要するに地方自治体の公共事業案件として、地元のヤクザなり土建屋に金を落とすことだけが目的であって、箱だけ作ったら後はバイトで貧乏人の相手してろみたいな話だよ。それでは駄目だ。
神道のことしか考えてない、クルクパーのインチキ右翼や偽保守しかいない大学かと思ったら、国学院では珍しく新藤透(国学院大教授)氏がまともな意見を述べているように、「『楽しかったらそれでいい』という結論を得たいなら図書館である必然性がない」と思う。まさしく、CCC に本屋を兼ねたレジャーランドを運営させておけばいいのだ。