Scribble at 2023-09-20 12:35:25 Last modified: 2023-09-20 20:26:26

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ここ1週間ほどかけて仕分けしたり目を通した文庫と新書を、ノース・ブックセンターに引き取ってもらうことにした。さきほどダンボール箱を受け取り、再び明日の午前中に引き渡す。全て写真に撮ったわけでもないが(たぶんダンボールには写真で並べた量の倍くらい入った)、一部は上のようなタイトルである。売り払う前に簡単な紹介を残しておいた方がいいと判断して、ここ数日の落書きでご紹介したタイトルもあろう(その多くは否定的な評価である。読んで大いに参考となったタイトルはノートに書き溜めている。クズみたいな本、つまり何かの批判なり反面教師として後から使えるような価値もないような本、たとえば『第二芸術』とかは、ここで切り捨てておけば十分だろう)。

他に売却する本として、撮影はしていないのだが実家の宗旨・宗派に関する本がある。全て売り払うわけではなく、今回は特に人物の評伝とか個人の解釈とかを売って原典の類は残した。よって、あまり具体的に書くと実家の宗旨を公表したのと変わらなくなってしまうのだが、たとえば『大乗起信論』とか『ブッダのことば』(どちらも岩波文庫)とかは残した。

ついでに書いておくと、『やし酒飲み』はアチェベのような作品かと思ったのだが、実際に手にとってみると御伽噺のような作品であった。そして、正直なところつまらないと感じた。未開社会の口承による寓話の類でも長大なものになることは知っているし、その多くは突拍子もない設定の中に何か教えられるべきことがありそうだということも分かるけれど、そろそろそういう文化人類学的なスケベ根性だけでアフリカの文学作品を読もうとするのはどうかと思うし、僕自身の経験として考えてみても大して役に立っていない。たとえば、アチェベの作品で最後に自殺する人物にしても、あれはアフリカ人だからなのか、それとも彼自身が何らかの個性をもっていたからなのか、それとも追い詰められて何か精神に失調をきたしたからなのかは、どうとでもとりようがある。

そして、僕はああした(特に)作り話の類に文化とか伝統とかの文化人類学的、あるいは政治的に過剰な意味を読み取ろうとするのは、はっきり言って凡人の生き方や社会に対する過大評価でしかないと思う。先進国だろうとグローバル・サウスだろうと、人の社会なんてどこでも大して素晴らしくもなければ洗練されているわけでもない。そして、そういうところにある文化や伝統だって、本人たちや周りが騒ぐほど素晴らしいものでもなかったりする。もちろん、僕はペシミストでもなければシニカルな言い方をわざとしたいわけでもなく、アフリカの生活やメンタリティを過剰にロハスみたいなインチキとして不用意に肯定的に解釈したり理解しようとするのは、逆に彼らの実情から目を背けるだけになろうと言いたいだけである。アフリカで暮らしてる大半の人にとっては、文学や伝承なんかよりも明日の飯の方が重要だろう。

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