Scribble at 2018-08-21 10:12:17 Last modified: 2022-09-28 10:15:25

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パーミー・オルソン(Parmy Olson)の "We Are Anonymous: Inside the Hacker World of LulzSec, Anonymous, and the Global Cyber Insurgency" という本は、原書が出版された5年前には早くも『我々はアノニマス 天才ハッカー集団の正体とサイバー攻撃の内幕』として邦訳されており、本の帯にホリエモンが「最高の可能性を感じるね」とコメントを載せているのが失笑を誘う(「感じただけだ」と後で幾らでも言い訳ができる。物理的に可能な事象であれば必ず 0 以上の確率がある)。また、この著作自体も、オルソンの Wikipedia での薄い記述が物語っているように、我々のような情報セキュリティの実務家や専門家はおろか、ハッカー気取りの子供にすら読まれなかった「未熟なネットおたくによる体当たり作品」と見做されており、クイン・ノートンが『Wired』で酷評したように "it turns out to be not the real story of Anonymous, and not a story with any real meaning" であるというのが専門家の評価だ。

社会学には、500ページを越えるような本を思い描いてか、オルソンの本に代表される欧米のやたらとページ数が多い本を指して「分厚い記述」なるものを分量という基準だけで一定の価値があるかのように見做す傾向というか〈分量崇拝〉のようながある。総務省案件や経産省案件で、企画書の分厚さが 10mm 増えるごとに1千万円ずつ予算が増えると言われる、富士通や NEC やアクセンチュアと似たようなものだ。もちろんその対極として、記録や記述などなくてもミームさえ継承されればいいなどという、『地球(テラ)へ…』の読み過ぎと思われるセンチメンタリズムを口にする人文学者とか、数学の論文は2ページで世界を変えるみたいなファンタージをいまだに信じている自称「理系」君も数多くいるわけだが、いずれにしても学術的には極論や無知であり、悪質と言える思い込みによって物事を判断する、ていどの低い人間が山のようにいる。

オルソンの著作は storytelling しか能がない社会学者がヤクザや浮浪者と何年か付き合って書くような、たいていは質の悪いルポと同じで、この世の中になんらかのインパクトや貢献を与えるものではなく、はっきり言ってしまえば欲求不満の高校生が暇つぶしに書くような、赤い下着のおねーさんがどうたらとか転生したら幼女だったといったタイトルのラノベと同じていどの価値しかないと断言できる。加えて、ラノベはどのみち創作物なので空想としての世界観や表現手法に関する既存の基準と読み手の好き嫌いから評価しても事足りるが、ルポやドキュメンタリー作品は創作物として評価するだけでは不十分である。ところが、犯罪者や匿名の人物を相手にした作品は内容の真偽について第三者が追試するのはほぼ不可能であり、後から対人関係や当人の考え方や暮らしが変わってしまったり、もっと言えば海外の犯罪社会学に関する記録では取材相手が数年後に死んでいたりすることも多々あるため、評価はもとより記録として保存するべきかどうか宙づりのまま放置し続けることになる。Anonymous なんて、構成メンバーを誰が正確に把握しているというのか。いや、そんな必要などないとすら思える疑似集団について、Anonymous という共通の名札があるていどのことで何か言えるのだろうか。

もちろん、内容にどれほど不備があろうと(いや仮にドキュメンタリーを騙る捏造の創作物であったにせよ)アーカイブしておく方がよいとは言える。しかし、これはもちろん建前にすぎない。我々の現実の判断や行動は、このような作品を、それが絶版になったり公共図書館から払い下げられて借りられなくなることで社会的な評価が下されたと見做す。そう見做されたくなければ、僕を始めとして数十年前の著作物でも古書として買って手元に置くか、図書館で何度も借りて当該の著作物が有用だと考えている市民がいることを知らせなくてはならない。

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