Scribble at 2021-01-09 19:03:59 Last modified: unmodified

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「これは表現、これはヘイト」といった demarcation をやっていくと、科学哲学ではお馴染みの話題だが、切り捨てられた方は自分たちだけの島宇宙なり〈なんとかスフェア〉を作ったり見つけて集まってゆく。或る意味では皮肉なことに、切り捨てた人々を団結させてしまう効果だってあるのだ。とは言え、特定の発言をするなと言って聞き入れるわけでもなければ、どこか一つのプラットフォームで「言論」なるものを戦わせたり共有するなんてことが実現するかと言えば、そんなものは未熟な見識の啓蒙主義者や多元主義者が抱く妄想でしかない。思想や信仰の衝突は、何をどう言おうと気軽に社会というものを考えている学者が薄っぺらい論説に書いているような類の〈ゲーム〉ではないのであって、こちらとあちらでは〈言語〉というプラットフォームすら、或る意味では「話が通じない」という具合に共有していない可能性だってあるのだ。

では、トランプ支持者や、イカれた PC 野郎や、歩く無知無教養のネトウヨや、アグレッシブすぎるフェミ女や、軟弱な「熟議」信奉者や、息を吐くようにヘイトやでたらめな「史実」をぶちまける三流構成作家や、人でなしの左翼どもとは議論が不可能なのだろうか。可能性はある。よって、君子危うきになんとやら。無視するのも一つの手だ。しかし、もちろん人によって、そして条件や状況によっては可能性があろう(「可能性」とは、要するにどちらでもありえるということだからだ)。しかし、とりわけ日本の社会科学の論説を読んで条件が分かるようになるかというと、僕はかなり難しいと思う。日本の社会科学の成果から言って、議論を始めるための条件が分かるかもしれないと思える論説を見つける方が難しいと言えるほどだ。

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