Scribble at 2023-05-14 23:04:21 Last modified: 2023-05-14 23:15:56

僕ら科学哲学の研究者も大多数がそうなのだけれど、「科学」について関心があると言っても、その具体的なテーマとか対象について尋ねてみると、たいてい物理とか天文とか、あるいはせいぜい進化論とかなんだよね。冶金学とか、土木工学とか、美容医学とか、そういうジャンルの話を持ち出す人は滅多にいない。ということは、科学哲学なんて言ってても、それに従事しているプロパーですら高校までに勉強したことの範囲で「科学」を考えてるだけなんじゃないかという気がする。確かに学部や大学院で、物理でも量子力学のハイ・レベルな議論をフォローできるようになるだろうし、天文についても電波天文学の理論を学ぶだろうし、進化論を精密に議論できる統計学を身に着けるのかもしれないが、でも結局は教科書的に言ってメジャーな分野をほじくり返しているだけだ。多くの自然科学プロパーが科学哲学の議論を軽視したり敵視する動機には、そういう偏りが関連しているのではないかと思える。自然科学者だって、しょせんは人間だ。自分のコミットしているテーマや分野が哲学的な議論の対象から外されているかのような扱いを受けるのが当たり前みたいになっていたら、そら気分の良いものではなかろう。

それから、こういう議論をすると、なかば反射的に「冶金学や土木工学は『工学』や『技術』であって、『科学』ではない」とか「美容医学は化粧品メーカーのシンクタンクが業績を積み上げていて、学会全体にテーマの選択とか評価基準に関する系統的誤謬や政治的な取引が存在する」とかなんとか言う奴が必ず出てくるんだよな。こうした安易な(そして間違った)血統主義とか陰謀論が、科学史の真面目な勉強をすれば愚にもつかない偏見であることは明らかだ。たとえば物理学が科学の典型や代表であるかのように思っている人々は、学問やものの見方や扱い方の文化や経済や政治といった事情を色々と考慮すれば、それが歴史的な偶然を必然であるかのように錯覚していることに気づいてもらいたいと思う。科学史は、そのあたりの議論をもっと積極的にアウトリーチとしても展開するべきだと思うのだが、そういうスケールで議論できる人が少ないのは困ったことだ。EFGILS (English, French, German/Greek, Italic, Latin, Spanish) が基本的な素養だとか言って外国語は色々とできるにも関わらず、その思考や思想のスケールがついてこない。こういう論点を歴史として明解に議論した方が、『サピエンス』だ『ホモ・デウス』だなんだという雑な議論を色々な通俗媒体で繰り返している人よりも、よほど人類の叡智を前進させるのに貢献すると思う。

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