Scribble at 2021-02-18 17:44:17 Last modified: unmodified

@chimaki

実験室さんが紹介されている記事のコメントに「著作権の問題はそもそも親告罪です。それは犯される著作者個人の法益を守るために、本人が申告した場合のみ犯罪になる。パクっただけでは犯罪ではない。」ってあってびっくりした。違うよ!犯罪は成立するけど起訴できないだけですよ

https://twitter.com/chimaki/status/506417150135791616

構成要件論を高校生に教える必要があるかどうかはともかく、上のようなことは、少なくとも高校までの教育課程で教えるべきだと思う。これは現役の高校時代にも、いまでは弁護士をやっている友人と話していたことでもあったが、日本は(倫理はともかく)政経を始めとする社会科学の教育が貧弱すぎる。文科省的な立場からすると、社会科学の教育に力を入れると生徒や学生に批判能力がついて煩い「市民」になりやすいと思っているのかもしれないが、底上げをしない限りは自分たちに有利で有能な人材も育たない。つまり、不十分な教育というものは自分たちが後の世代よりもアドバンテージを維持するためにしか働かず、どういう意味においてであれ正当化しうるものではない。

政治・経済・法律の素養をどうやって教育制度に反映させるかという話は、実務に落とし込むときに他の教科で使う時間との兼ね合いという議論になる。そして、昨今は「国際人」という部品を量産するべく英語教育の比重を上げようとする人々がいて、そうした人々から見て「不必要」な教科を教育課程から排除しようという議論もある。もちろん、別の事案を取り上げた際に述べたとおり、僕は「教育制度」(公的な制度の他にも「教育」はある)で何を教えるかは当該共同体の行政機関が決めることであって、それは世論に左右されざるを得ないし、左右されてもよいと述べた。なので、「実学志向」という観点が尊ばれ、その観点から英語を優先すべきだと正当化されるなら、英語を優先して悪いわけがない。しかし、同じ観点からは政治・経済・法律(それらがいかに政権寄りに偏っていようと)も優先されてしかるべきではないか。素養がなく、英語でものを喋るというだけのバカを量産しても、どのみち多国籍の舞台では渡り合えないだろう。よく外国語の習得を日本では「語学」と言うが、こういう点にも、何のために外国語を習得するのかが分かっていない様子をみてとれる。人は外国語をそれ単独で習得したくらいで、「国際人」やエリートましてや学術研究者になるわけではないのだ。英語を使って生きる人々や英語を使って食べていかなくてはならないという人々を除くと、小学校から大学までの 16 年間を漫然と過ごしたていどで身に付くのは、平均として言っても、せいぜい街中の愚かな英語表現を書いたり読む程度の力でしかない。

小学校から英語の授業をやれば「国際人」の下地ができたり、国際感覚が身に付くなどと思い込んでいる人も多く、とりわけ 5 年や 10 年ほど海外で生活したていどのことで外国語教育にご高説を垂れる人々の素人談義には、はっきり言って「厨二病」という評価しか与えられない。事実として、ドイツやフランスの初等教育課程で外国語が教えられるようになったのは、せいぜい今世紀に入ってからのことである(フランスでは 2002 年に義務教育となり、ドイツでは 2003 年頃から導入が始まった)。つまり、これらの国々で初等教育に外国語の授業が導入されたのは、日本の小学校で英語を教えようと騒ぎ始めた時期と、さほど変わらない。しかし、これらの国ではもっとずっと前から多くの人材が活躍し成果を上げてきている。そして、実は日本でも昔から数多くの人材が海外に出て成果を上げているし、現代の基準で言っても「国際人」と言えるような人材はたくさんいたであろう。そのポイントは、実は「英語ができる・できない」の差ではない。

[追記:2021-02-18]

それはそうと、上記の Twitter の発言は2014年になっているのだけれど、僕が書いた上の文章は初出が2005年で、最終更新が2013年なんだよね。ちょっと経緯を忘れてしまったので、ドラえもんにタイムマシンを貸してもらって検証しないといけない。

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