Scribble at 2019-06-17 15:49:41 Last modified: 2022-09-29 10:42:18

川崎の児童ら20人が殺傷された事件や元次官が長男を殺害したとされる事件を受け、長くひきこもる子どもと暮らす、老いゆく親に動揺や不安が広がっている。専門家は、家族に過重な責任を負わせずSOSを出しやすくするよう、呼びかけている。

「ひきこもる中年の我が子どうすれば」 鳴りやまぬ電話

家族が心配して行政などに相談するのは仕方ない。しかし周りの人々や報道機関が、そうじゃないと言いながらも、結局は凶悪事件を「ひきこもり」というキーワードに回収してしまう思考へ無自覚に誘導してしまっているとしか思えない状況を眺めきて、非常に苛立たしいものを感じている。今日も朝の NHK のニューズ番組で、NHK が開設している「ひきこもり」のサイトに、一連の凶悪事件を受けて色々な相談が集まっているといった話をしていたのだが、これも結局は偏見を強化しているだけにしかなっていないと思う。これでは、こんなサイトはない方がいい。(マスコミが物事を短絡的に回収するフレーズとしては、「ひきこもり」と平仮名で表記する。この手の人々は、国家官僚と同じく、往々にして平仮名で表記すれば《東大を出てない馬鹿にも分かる》と思い込んでいるからだ。)

ここで、「だったら何も報道しなくていいのか」と質問したくなるのも分かるし、僕は引き籠りについて何も取り上げなくてもいいとは思っていない。同じような質問を連れ合いから聞いて、そのときに僕が答えたのは、やはり引き籠りの対策やサポートの話と、こういう例外的な話を安易に結びつけるのは、僕らが自分に理解できる範囲に《セカイ》を再定義しようとする欺瞞でしかないと思うので、僕の答えは明らかだ。「ひきこもり」の専用サイトを作って、「ひきこもり」というフレーズに合致した事件があれば何でもかんでも話題として持ち出すといった《番宣》と同等の宣伝行為に近いことをやるのは、まさしくヘイト本を出版するのと同じ行為であり、それはまずやめるべきである。ウェブサイトを公開したりウェブサイトへアクセスするていどのことで、人の生活や社会が良くなったりするものか。それは、すがりたい気の毒な人々には申し訳ないが、悪質な錯覚だ。

多くの日本人には、《善意》で始めたなどと言い訳を作って、後から効果がないとか逆効果だと分かっても、ものごとを放置してしまう悪癖がある。でも、やはり社会政策やキャンペーンや奉仕活動は結果が全てである。投票行動でもボランティアでも、我々は自分自身にやったことの責任を問うべきなのだが、そういう原理原則を貫徹して生活するということをしない、あるいはする必要がないと思っている大半の凡人には、こういう短絡的かつ発作的な《善意》を福祉などの大規模な公共政策にまで広げる能力などないのだし、安易に「ひきこもり」についてみんなで考えましょうとか、独り悦に入るのは救い難いと言える。

ちなみに IME が臨機応変に誤変換するので、「解説する」と「開設する」を丁寧に推敲しないと滅茶苦茶な文章になる。思うのだが、このところ外来語をむやみに使う人が増えているように思える理由の一つが、これではないのだろうか。つまり同音異義語が多いため、「解説する」と書くよりも「レクチャーする」などと書く方が誤変換はないし、「開設する(始めるときだけではなく、運用し続けているという意味でも使える)」と書くよりも「リリースする」とか「マネージする」などと書く方が誤変換はない。

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