Scribble at 2023-07-16 11:30:39 Last modified: 2023-07-16 11:39:52

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A Third of North America’s Birds Have Vanished

こういうのもまた人の活動の影響なのだろうか。昨今は、「人新世」という言葉が通俗物書きの間で大流行しており、それどころか学者までもが(キレると一般人よりもクレイジーなことを言ったり実行する学者もいるにはいるが)新しい年代の区分として認めようなどとキャンペーンを展開しはじめているらしい。全く、愚かなことだ。人類が地球に大きな影響を与えた特別な時代であるというのが理由らしいが、結局はその動機や理由を遡れば公害や薬害、あるいはマイクロ・プラスチックだ海ゴミだ森林伐採だという、昔ながらのインチキ・ラッダイトやインチキ・ロハスが口走る sustainability だの SDGs だのという隠れ宗教や隠れ左翼である。

僕が sustainability について、それが企業経営の「事業継続性」という意味であろうと、あるいは地球環境の持続性であろうと、かなり胡散臭い話だと思っている理由は、おおよそ一つである。それはつまり、人が何らかの方法を選びさえすれば、事業であろうと環境であろうと持続できるという思い込みこそが人類の傲慢さを物語っているということである。企業経営の場合は、99.999% の企業経営者なんて凡人でしかないし、方法の如何に関わらず事業には運も関係がある。方法一つで簡単に事業継続できたり上場できるなんて黒魔術があるわけないだろう。そんなことを夢想する経営者なんて、それこそカソリックやオウムや統一教会にでも入信したのかという気がする(まぁ、日本でも支持者が多いアメリカの経営学者や経営コンサルにクリスチャン、しかもモルモン教徒が異様に多いのは周知の事実だが)。そして地球環境にいたっては、温暖化の影響についてすら確たる意見の一致がないし、仮に温暖化そのものの影響が深刻であるとしても、それを止めるか、それに対応するための手立てに何があるかという意見なんて、学者のあいだでも全くもって確かなことがない状態だ。しかし、哲学者の観点から言えば、皮肉にも彼らに共通しているのは、人の知恵や技術で解決できるという思い上がりや錯覚だと思う。

よって、インチキ物書きどもが大好きな「人新世」などという傲慢きわまりない流行語にしても、それが政府の文書で使われるようになったり、NHK のアナウンサーが「浮き彫り」と同じくらい毎日のように口走るようになったとしても、(科学)哲学者としての僕は絶対に自分自身が物事をとらえたり考えるための概念としては使わないであろう。こんなインチキ言葉に哲学的な重要性など微塵もないからだ。この場でデイヴィッド・ベネターの反出生主義まで射程に入れて議論するつもりはないにしても、ひょっとすると最も効果的で sustainable な選択肢は、それこそ「人類の滅亡」かもしれないではないか。

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