Scribble at 2025-04-22 22:34:25 Last modified: 2025-04-22 22:39:06
あいかわらず、梗概や書評だけでなく丁寧な批評も交えていてありがたい記事だとは思うのだが、僕はこの手の社会科学の議論というのは、どうも昔から強い違和感を覚えるんだよね。これはブログ記事の著者に対する批判ではないから誤解されないよう、最初に書いておく。
僕は、高校を出た直後は社会学の本を読んでいて、法社会学者を志したこともあるし、当サイトでもプロフィールの一部として公表しているように、出身学部は法学部法律学科(刑事法学、法哲学専攻)だ。そして、その当時から成文堂などからちらほらと出ていた「法と経済学」なる見慣れない研究分野にも興味をもって経済の勉強もしていた。都合のいいことに、出身大学は経済と法律を教える大学だったので、経済学では岩田年浩教授に指導していただき、そのあと、僕が関大の修士課程に進んだときに岩田先生も関大に異動されていたという逸話もある。ここであまり経済学の話はしていないが、実は高校時代に同級生が『資本論』を読んでいたので僕はサミュエルソンを読んだりしていたこともあるし、もともと考古学を学んでいた経緯も合わせると、社会科学の広範囲をカバーしてきたという、ちょっとした自負はある。なので、もちろんだが社会科学全般を軽んじてなどいない。僕が軽んじているのは、AV の撮影現場や被差別部落に入り浸るしか能が無い連中であって、学問そのものはなんにも軽んじていないのである。
だが、上のブログ記事で紹介されている社会科学者の箱庭趣味的というか訓詁学的な議論というものには、どうも昔から違和感をぬぐえない。アイヒマンが根っからの悪人であろうとなかろうと、あるいはアーレントが哲学者として、あるいは物書きとしてどのていど俗物であろうとなかろうと、その議論が決着すれば世の中が良くなるの? という疑問が常に起きる。僕が日本の社会学者をさんざん馬鹿にしている理由も、結局はこれと同じだ。もちろん、社会学者にそういう目的や動機がなくてもかまわない。学問が世のため人のためなんてのは自己欺瞞であって、本当のところは自分自身のために他ならないのだから。でも、少なくとも建前として世の中を良くしたいと志して研究したり調査しているのであれば、大量の凡人の暮らしを聞き書きしたり、AV 女優の暮らしや来歴を詳細に解説して、いったい何になるのかと立ち止まるくらいのことはしたらどうなのかと思うんだよね。それと同じで、アイヒマンやアーレントについて何が分かれば何を達することになるのか。そして、それはどういう課題にとって参考になるのか。そうした効用を正確かつ説得力をもって示してもらわない限りは、単なる好事家のお喋りにしか思えないんだよね。