2021年09月09日に初出の投稿

Last modified: 2021-09-10

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ジャック・ウェルチ わが経営(下)

なんだかんだ言いながらも、引き続き『わが経営』の下巻まで読み進めている。正直言って、企業人でもない限り誰でも知ってる人物ではないだろうし、それどころか本書が既に書店になくて古本でしか手に入らないという事実からすると、若手の勤め人の多くもジャック・ウェルチという人物を知らない可能性があろう(それどころか、日本人の大半は GE という会社すら知らないと思う)。そういう方々には、一読してもらう値打ちがあるとは思う。もちろん、不都合なことは書かれていないだろうし、書かれている内容が一から十まで事実もしくは正確である保証など何もないわけだが、仮に嘘とまではいかずに単なる建前や後知恵だったにせよ、一山幾らで並んでいる雑魚企業の経営者が書いた「企業戦略」の本よりはマシというものである。なぜなら、そのへんに幾らでもあるような中小の経営者が書くものを再検証しようとするジャーナリストなんていないからだ。それに比べて、もしウェルチが本書であからさまな嘘を書いていたら、内部告発でも何でも続々と出てくるだろう。場合によっては訴訟にもなりかねない。ということは、多くの牽制がある中でおいそれと適当なことは書けないだろうから、内容について一定の信頼はしてよいという話になる。本来、メディアが「第四の権力」と呼ばれる理由は、こういう牽制力にある。クズみたいな芸能人がコロナに感染したとか、ガキみたいなアイドルが結婚しただの、些事を追いかけることなどジャーナリズムやメディアの役割でもなんでもない。そんな媒体や番組が地球上から完全に消失しても、人の社会が良くあるために何のリスクでもないだろう。一口にそうしたイエロー・ジャーナリズムは凡俗のガス抜きとしての必要悪などと言うが、そういうことを言っているのはジャーナリストだけである。要するに必要悪が自分を必要だと言い続けてきたのが事実というものであり、これはまさにヤクザが自らチンピラや半端者の受け皿だなどと訴えているようなものである。

ただ、僕が見聞きしてきた『わが経営』という本やウェルチについての雑感というのは、これまで強圧的で実績主義のパワハラ親父というものでしかなかったのだが、『わが経営』を実際に読んでみると、そうした雑感が本当に雑であることが分かった。というか、敢えてそれらの雑感は「誤読」や「誤解」だと言ってもいいくらいだ。

ウェルチが体育会系のパワハラ親父だといった雑感がナイーヴすぎる証拠として、彼の経歴が明白な反証となるだろう。彼はアイビー・リーグ出身ではないものの、それに準じる "public ivy" と呼ばれるイリノイ大学の出身だ。しかも化学を専攻して25歳で博士号を取得している。本人も本書で書いているように大学で教える将来すら思い描いていたらしく、そのまま学者にもなれたであろう資質の人物だ。若い頃はアメフトやアイス・ホッケーやゴルフに打ち込んでいたようだが、必ずしもパワハラの経営者に多いとされる「脳筋」ではない。というか、アメリカで有能な人物像というのは、たいていスポーツも勉学もできることを指しており、アイビー・リーグでもボート・レースなどが昔から盛んであることを考えると、多くの企業経営者や学者やプロ・スポーツの選手に、文武両道の人物が多いのは当然なのであろう。そもそも「文武両道」なんて言葉をいちいち考え出して使っている事自体、それが珍しいとか難しいという思い込みがあるからだ。難しいのは事実だが、難しいことをやる人間をしっかり探したり選び出せば、どこの国でもちゃんといるものである。そういう人物がキャバクラの経営者であろうと自衛隊の陸佐であろうと京大の教授であろうと、そうした境遇は選択できる余地がある有能な人間にとっては自分が何をどう選ぶかの問題でしかない。そういう意味では、簡単に真似したり参考にはできない読み物だという指摘は正しいが、そういう人物がどこにもいないかのように思い込むのは愚かなことだろう。

そして、それまで見聞きしていた雑感に比べて本書に強い印象、なかんずく良い印象を持った理由は、最初から最後まで徹底して人がどう考えて何をしたかに焦点を当てていることだ。これに対して、日本の経営者が書く自叙伝や経営の本は、先日も『アメーバ経営』を必要以上にこき下ろしたかもしれないが、成果としてのマトリクスとかフレームワークとか、そういった道具や成果や決まりといった static なものに着目してしまいがちだ。これは、やはり何か確固とした支えで経営を安定させることを志向している経営者が日本に多く、ウェルチのように変化とか improvement を繰り返すことによってこそ経営は或る意味で安泰になるという発想と違っているからなのだろう。恐らく、これらの優劣や是非は簡単に言えないと思うが、中小企業であれ経営の一画を担っている立場としてどちらを望むかと言えば、僕は明らかに後者だ。そうでなければ、自社どころか関西でもそれなりのレベルにあるエンジニアを自認している人間が、別に案件で使うわけでもないのに、50歳を超えて毎年のように新しいプログラミング言語や開発サービス、あるいはそれらの基礎になっている情報科学や数学の議論を学ぶ必要などないだろう。

それから些事になるが、相変わらずビジネス書や経営書のタイトルの翻訳についてはコメントしたくなる。本書の「わが経営」は、明らかにヒトラーの「わが闘争」をもじっているが、こういう印象操作ゆえにか、日本ではウェルチといえば強圧的な経営者の典型だという雑感を聞く。しかし、そもそもにおいて企業の経営者は支配者である。GE のような巨大企業であれば、数十万人を統括するのだから、なおさらだろう。逆に、サーヴァント・リーダーシップや「傾聴」といった NLP まがいのニセ科学的なフレーズを好む軟弱学生やひ弱な若手サラリーマンが愛好する、物分りの良い父親像といった経営者のイメージを本当に体現する人物がいたら、その人は〈経営者として〉何をしていることになるのだろうか。逸話として末端の社員と言葉を交わした経験が何度かあることを紹介してもらっても違和感はないけれど、毎日のように仕事場で具体的な業務を眺めて回るような人物が、まともな経営をしているとは思えない。ましてや、会社に犬を連れてきて本当のところ何になるというのか(どれほど可愛がろうとペットを単純に動物虐待だと思う人もいる)。逆に言えば、そういう会社は経営者など実はいなくても数十年は回していける、生活必需品の横流しみたいな事業で固定先営業だけやってりゃいいブローカーや小売だろう。

それにしても、本書を読んでいて改めて思うのは、この本が全体として "acknowledgement" だという印象だ。最初から最後までとにかく、事業や業務を変革する人の話をしている。もちろん、その変革とは「改善」であるとは限らず、幾つもの失敗が当人からも紹介されているし、中には PCBs のようにミスリードな説明も書かれているし、アジア人で初めて GE の上級副社長となったが、そのあと LIXIL の CEO として巨大な失態を演じて解任された藤森義明氏についても過大評価の感がある。ただ、何をするにせよ人が動いて結果が生まれたという一貫した視線で書かれているのは、その是非については別としても一読に値すると思うんだよね。日本の経営者でこれだけの分量で書ける人って、そういない筈だ。日本の上場企業の経営者が書けるレベルなんて、せいせい、渋谷のキャバクラで知り合った IT 企業の社長数名とか、ヒルズで開催された乱交パーティで名刺交換した経産省の役人とか、そのていどの人間関係しかないだろうからだ。

最後に一言だけ書いておくと、ウェルチが現在も本書を改訂できていたら、スコット・マクネリーのエピソード(225ページ)は削除したほうが良いな。ジョークとしても下品だし、確実にフェミニストから非難されるだろう。

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