Scribble at 2024-07-14 07:18:24 Last modified: 2024-07-14 07:27:35

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檻の中のモニターに映るカラフルなパターンのワンちゃんたちは、10分以内に買い手がつかないと永遠に消えてしまいます。それに気づいて慌てて購入すると、救助されたデジタルワンちゃんがほかの購入されたデジタルワンちゃんたちと元気に走り回ったり遊んだりしているのを専用サイトで見ることができます。

「NFTとデジタルアート」新たなアート界への招待

「『本来ペットショップでは、人間の都合で売れなかった動物たちが処分されている。これが電子上だったら違う気持ちになるのか』という疑問を私たちに問いかけるコンセプチュアルな作品です」なんて、まことしやかなことを言ってるけど、しょせんは広告代理店や心理学者の発想であって、こういうものを気軽に「アート」とか「コンセプト」とか呼んでる神経が僕には信じられないね。

はっきり言うと、僕は「芸術やアートに厳密で唯一の定義はない」という意見には同意するけれど、だからといって何でもかんでも好き勝手に「アート」だと言ってるような連中には同意しないし、それを否定するスタンスを「排除の思想」だとか言ってる左翼にも全く同意しない。敢えて哲学者として言えば、人の叡智や社会システムや価値観というものは区別や分類という認知的なベースを生理的にもっているのであって、それが不当な差別になるかどうかが問われるべきであっても、分類したり区別することそれ自体を否定するのは、人類史スケールの保守主義者としても全く認められない。認められないというよりも、非科学的だと思うね。そして、アートや道徳が科学とは関係ないとか言ってるのは、こんどは科学哲学者の僕に言わせれば無知無教養の自己宣伝みたいなものだ。それぞれの時代において、芸術家は同じ時代の科学や技術を採り入れたり影響されているものであって、それらとの是非はともかく相互関係で成立しているものなのだ。

したがって、テクノロジーを利用するアートがあってもいいという意見はあるとしても、この事例はあまりにも拙劣だし、まだいまでも NFT が流行していたら、そのうちこんなアマゾンのタイム・セールみたいな手法なんて、二流のマーケティング屋でも考えつくようなことだ。アートを名乗る資格はないね。そして、その厳密で客観的な定義がないとしても、少なくとも俺の考えでは、こんなものはアートじゃないんだよ。

それで、こういう話題についても言えるのだけど、たぶんアメリカとかでは同じような議論をしてる筈なんだよね。でも、日本では殆どないと思う。芸術とは何であるかとか、あるいは道徳とは何なのかとか、プロパーですら論争しないわけで、それはつまり自分たちの生きる糧じゃないってことなんだよ。しょせんは芸術も道徳も、そして多くの人にとっては哲学もだ。だから、おまえたち無能は、娘がいるくせに変態のフランス思想家だ、飲茶だ、元ゲーム作家だ、立命館のブ男だの本ばかり買い漁っては、読書ばっかしてる。それで誰とも議論しないか他の議論と照らし合わせてみることもしないで、終わる。これでは、まさしく僕が言っている「ゼロ演算」でしかなく、単に商品としての書籍なり情報を消費しているだけのことだ。もちろん、僕はそういう中でも幾らか他人の意見と照らし合わせたり誰かと話すとか短い文章を書くような機会を作ろうとする人がいれば、望みはあろうと思って幾つかのサイトを運営したり科学哲学のテキストを制作しようとも思っているけれど(社会科学は凡人をモデルにしなくてはいけないと言っているのは、そういう意味もある)、とにかくこの国の哲学とか美学とか倫理学のプロパーというのは公で議論しない連中で、学会の二次会とかでグズグズと喋ってるだけで本当に頭にくるんだよね。

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