Scribble at 2020-11-20 08:21:31 Last modified: 2020-11-22 21:36:43

差別が良くないと自分で自分を納得させるための理屈を自分で考えてゆくのは、ひとまず悪いことではないのだろう。しかし、そういう理屈をどうして考えるのかとか、どういう前提で考えるのかについて、可能な限りで自分が持っている価値判断の基準を相対化したり、あるいはそもそもそんな基準が必要なのかとか、そういう判断をしなくてはいけないものなのかと反省するような視点を持たない限り、どこかでありきたりな、あるいはお決まりの前提とか経験とか知識に制約された上でものを考えるだけに止まってしまうこともある。そして、それでいいかどうかは自明とは言えないので、世の中にはクリシンのような小手先のテクニックを教えたり、哲学と呼ばれる学問に携わる動機や機会や目的や効用が生まれるわけである。

もちろん、哲学は更にそういう動機や効用や目的や機会が何らかの偏見や錯覚の結果ではないのかと疑うことでもあるから、《そういう説明》だけで哲学を理解してはいけないのだが、この段階までくると、後はそれぞれの人が「哲学」と呼ばれている何らかの知的営為にどうコミットするかという問題になり、哲学についての話であるにもかかわらず、総論として展開するのは非常に難しくなる。それゆえ、多くのプロパーは哲学とは何であるかという説明を「考え続けること」だと人を煙に巻くような言い方しかできなくなるのだ。これはこれで、僕は仕方のないことではあると思う。(が、それで済ませていいかどうかは別の話である。いったん、このような表現が決まり文句のように使われ始めると、全く実感の伴わない鸚鵡返しが通俗本にコピペされるようになるからだ。)

さて、ここまでは前段である。本来は差別の話を書いていたのであった。例えば、僕は真摯に、人としての(何らかの意味においての)豊かさとか善し悪しは、高い学歴のあるなしとは関係がないと思う。もちろん、これは強い関連性がないという意味なので、高い学歴をもつ好人物もいれば、低い学歴のクズ野郎も当然ながらいるわけであって、しばしば下らない文学や漫画のフレーズに使われるような、学歴の低い人間の方が却って人間として豊かであるといった短絡や逆差別にコミットする気などさらさらない。そういう短絡が許されないということが、関連性がないとか無関係であるということの本質だからだ。

そして、哲学のようなアプローチを採用してものを考え続けようとするからには、ここで止まってはいけないのである。更に進んで、では人の生き方や暮らしぶりはそもそも「豊か」でなくてはいけないものなのかと問うべきだろう。あるいは、高い学歴のあるなしは狭い範囲で有効なだけの単なる属性にすぎないとして多様性なるものを尊重するのはいいとしても、では人や人の社会はそもそも多様でなくてはいけないものなのかと問うべきでもあろう。だが、『「差別はいけない」とみんないうけれど。』というクズみたいな評論が人文・社会系のプロパーから完全に黙殺されたことでも分かるように、かような《哲学者っぽい問い》や文章や思考のスタイルを猿真似するだけでは、僕が日ごろから言っている自意識(プレイ)にしかならない。本当のところは《俺ってば、哲学してるじゃん》という自画像のためだけに哲学にかかわったり、何か人生や世界について「問題意識」とか言われる何かを抱いているかのような錯覚や自己欺瞞に陥ることが難しいのは、とりわけ日本でものを書いたり教員をしている多くの無能どもを見ればよく分かることだ。(もちろん、哲学についての著作物を書いたり大学で教えるには有能でなければいけないのかと問う権利くらいは、通俗物書きやロクでもない論文しか書けない無能な諸君にもあるがね。)

若手だろうとジジイだろうと日本のクズ評論家どもがどうしようもないのは、出版・マスコミ業界に飲み込まれた自意識プレイに落ち込んでいる自覚が全く欠落しているか、それを分かっていながらものを書いたりテレビやラジオに出続けてたり大学で教えているという、事実上のニヒリズムに陥っているからだ。そんな連中の書くものに、愚かな若者や年寄りを誤魔化していっときの噴き上がりや感情の襞を揺らすていどの刹那的なはたらきをする言葉の感性くらいはあろうとも、それを超える力はないのだ。哲学の著作物というものは、本来は《危険》なものであって、読む者にテロを動機づけたり、読む者がかなり致命的な強迫観念に襲われたりしうる。僕が知る限り、少なくとも日本人が書いた科学哲学の著作でそういう意味での《危険》なものは一冊たりとて無いのだが、しかし違う意味で由々しき効果を持っている著作はたくさんあると言いたい。それはつまり、読者に何か「哲学」を学んだり「哲学」にかかわっていると錯覚させる効果だ。クリシンの通俗本だとか哲学用語だとか、あるいは古典的な著作で展開された議論の要約などをばらまいている連中は、そういう意味でなら《危険人物》と言ってよいのだろう。(ただ、社会科学的なスケールでの影響力は、一時的な噴き上がりに寄与するくらいはありうるが、ミームと言いうるほどの影響力は殆どないというのが僕の見立てである。)

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