Scribble at 2023-11-16 11:38:18 Last modified: 2023-11-16 13:20:52

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The Small Website Discoverability Crisis

言いたいことは分かる。世の中には、頭の良い人、親切な人、気の良い人、気前や気風の良い人、そして有能な人などがたくさんいて、彼らの全てではないにしても、一部の人はブログを運営したりウェブサイトを運営していたりする。なので、どのみち公開されているなら利用したいと思うのは人情というものであろう。でも、いまや商用どころか SNS 上で国が宣戦布告するようなプラットフォームとなったインターネットのウェブ・コンテンツにあって、誰か一人、いや特定の集団のために都合がいい findability の経路を確保するというのは、非常に難しくなっている。

一つの理由は、もちろんインターネットが特定のイデオロギーや言語や地域や文化や歴史や人種などに依存しない技術だからだ。イデオロギーどころか、慈善団体も利用するし「ルフィー」だって利用する。アルカイーダも使えば(実際にはアルカイーダと同じくらい悪辣な)CIA も使うし、科学哲学者も使えば文科省だって使うしエロ漫画の作者も使う。したがって、特定の用途とか目的だけのためにコンテンツを提供するなんていう面倒臭いことをやっていては、インターネット上に商圏なんていうセコい概念を想定しているのと同じであり、立ちどころにグローバル企業に飲み込まれてしまう。いわばビジネスにおいて成長が一つの(全ての企業にとってではないにしても)目標であれば、その最大限の範囲は、もちろん地球である。もしそれが火星人も含めるなら、当然だが Google も楽天も火星を含めたネットワークを商圏として設定するだろう。よって、上記のような記事を書く人にとって都合のよいコンテンツなど、それだけを取り出してみても続々と増えるのであって、それを見つけるための経路も増えてゆく。要は良いコンテンツを見つけることが難しいのではなく、既にそういうコンテンツは膨大な数に登るのであり、何が「良い」かを自分なりに正確かつ厳密に定めないと見つけようもないのだ。しかし、そういう基準は常に変わる。当人の関心とか生活上の脈絡とか仕事とか年齢とか、色々な条件で変わるのだ。だから、そういう条件を自分自身について固定することも現実には難しいし、またそういう条件をそもそも固定するべきではないという意見も妥当に思える。

また、これは何度か「アーカイブ」という発想に関連して述べていることだが、オンラインに自分にとって都合がいい情報とかコンテンツが、そもそもあるという想定が、僕には何か不健全に思えるのだ。他人のやることを信頼するということには説得力があるし、世の中の仕事というものは実際には大半が分業で実行されている。ネタニヤフがどれほど威勢の良い発言をしていようと、戦争は為政者が一人でやれるものではない。アダルト・ビデオは男優一人で制作できるわけでもない。哲学的な思索というものは自分自身で行う営為ではあるけれど、学術研究というものは成果を他人に評価してもらって業績となるのだから、何らかのコミュニケーションや人間関係を無視しては成立しない。しかし、必ず他人が協力してくれるとか一緒に何かしてくれるという期待だけで生きていてはいけないのも事実である。このところ、こういう依存関係を人類の文化や社会生活の起源として得々と説明する、安っぽい文明論の本が大流行していて、都内の「やさしい」軟弱な若者には持て囃されているようだが、現実の社会は無能に手を差し伸べたりしないし、自堕落な人間を1970年代の青春ドラマのようにサポートしてくれる教師や下宿先の家主なんて簡単に現れたりはしない。もちろん、その逆の極論として、「コンクリート・ジャングル」に生きる孤立した寂しい都会人だらけなどという、無能な社会学者や漫画家のセンチメンタリズムも多くの若者には非常識な偏見だと分かっているはずだ。

何にせよ、無用な偏見とか仮定を置かずに、必要と感じたものは利用して、紹介するなり謝辞を述べるなりすることを各人が積み上げていく他にない。アフィリエイトや情報商材のブログを Google の検索結果どころかオンラインから放逐するなどという発想が簡単にファシズムや差別に滑り落ちるのは目に見えているのだし、僕らがとりうる対抗手段は、必要なことを確実に積み上げていく他にないのだ。

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