Scribble at 2024-09-08 12:10:55 Last modified: 2024-09-09 07:52:36
In the end, maybe the crucial difference between those who read once and those who reread is an attitude toward time, or more precisely, death. The most obvious argument against rereading is, of course, that there just isn’t enough time. It makes no sense to luxuriate in Flaubert’s physiognomic details over and over again, unless you think you’re going to live forever. For those who do not reread, a book is like a little life. When it ends, it dies—or it lives on, imperfectly and embellished, in your memories. There is a sense of loss in this death, but also pleasure. Or as the French might put it, la petite mort.
本を再読するべきかどうかというテーマだが、確かに再読に反対する人の意見も分かる。でも、それは本によるし分野によるし、それから本をどういう目的で読むかにもよるので、読書そのものの原則にすることはできないと思う。
僕は、もちろん大半の本は再読しないのだが、それでも読んだ本を所持し続けている。確かに、読み返すべき価値がある本かどうかもはっきりしない場合があるし、その時間があるとも限らない。でも、一度は読んだからといって売り払ったりすると、その本に書かれていることを調べ直す必要が生じたときに、再び図書館で借りたり古本として(いや場合によっては新刊書として)買い直すという無駄が生じるかもしれない。したがって、まず再読の是非とは別に既読の本を所持し続けていることには理由がある。
そして次に、持っていたとしても再読の必要があるかどうか分からない本が大半だし、いまの議論で言えば再読するべきかどうかを問えるような本だってあるのかもしれない。たとえば、文学作品なんかはその議論の対象として当然のように想定されるのだろう。まさか哲学の研究者として『論理哲学論考』を再読せずに研究するなんてことはありえないわけだし、なにか引用する必要が生じた研究書を、一度でも読んだからといって読み返すべきではないと言うのも馬鹿げている。なので、こういう議論は最初からポリシーや原理原則の議論になんてなるわけがないのだ。
再読に反対する人々の意見、たとえば初めて読んだときの印象を保存する価値があるとか、あるいは再読して自分の読後感が訂正されたり明瞭になったりすることが、自分自身の経験の理解について悪影響を及ぼす可能性を論じることはできる。また、端的に言って同じ本を読み返している暇など人生には残っていないという TMT (terror management theory) 系の発想もできるし、同じ本を読み返して得るものよりも、新しい本をどんどん読んでいって得るものの方が多いという仮定にコミットすることも、僕は悪い発想ではないと思う。しかし、それを原理や原則の話として他人に勧めてもしょうがないのであって、それこそ端的に自分自身が再読しないことで何を成果として打ち立てたのかを公表することが説得力につながる。再読して自分の読後感を再び味わいたいというセンチメンタリズムと同じていどの、最初の読後感を残したいというセンチメンタリズムを突き合わせるだけなら、クリシンが大好きで何の経験もチャレンジもしていない小僧のディベートと同じで、誰でも想像だけで言えることだからだ。