Scribble at 2024-09-08 08:49:45 Last modified: 2024-09-08 09:15:34
英会話や英語教育に携わる人達の印象として話している事例を見聞きしていると、TOEIC のような「パズル的」と評されている類のペーパー・テストで800とか900といったハイ・スコア(もちろん自称「満点」も含めて)を取っていても、アメリカ人のネイティブとまともに会話できる人というのは、ハイ・スコアを取っている人たちの中ですら、おおよそ3%くらいしかいないと言っていることが多い。具体的な統計や「3%」という数値の根拠は分からないが、ともかく印象として、ペーパー・テストで高い成績を収めていても会話できるとは限らないということらしい。ただし、ここでは一つだけ注意が必要だと思う。
それは、「TOEIC でハイ・スコアを取っても会話できる人は少ない」というフレーズは、実は英会話教育とか英語の学習方法について調べている人なら誰でも見聞きしたことがあると思うが、このフレーズそのものがミスリードを誘いやすいということだ。なぜなら、会話できるかどうかと、英語で書かれた文書を調べたり洋書を読んだりして作業したり仕事に役立てられるかどうかとは、必ずしも同じではないからだ。そういうフレーズを口にしている英会話の教師やネイティブのアメリカ人にとっては、「英会話できるかどうか」が着眼点であり話題の中心なのであるから、ミスリードするつもりがあろうとなかろうと英会話のことしか言っていない。でも、英会話ができなくても文章を読むという作業だけで英語を役立てている人はたくさんいて、僕もおそらくは「英会話ができる」部類の人間ではないと自覚しているけれど、英語の文書を相当な分量として読んできたし、もちろんその成果として哲学の修士号をもっていたり、国公立大学の博士課程に進学できたりしている。英会話の教員から見て僕に英会話が十分に「できる」と評価できるかどうかはともかく、そのていどには英語が使えているのだ。
そして、僕は更に大学を出た後に企業へ就職して、ウェブ・アプリケーションのエンジニアとかデザイナーとか情報セキュリティを担当する部長といった役職を拝命しているが、プライバシーマークを認定してもらうために参照するべき国内の規格である JIS Q 15001 のような文書を除けば、僕が仕事で読んでいる文書の8割くらいは英語のウェブ・ページや電子書籍だ。わずかな例外(PIA で著名な瀬戸さんや「ITリスク学」を提唱されている佐々木さん、あるいは個人情報保護法という日本の法令について書かれた書籍)を除けば、情報セキュリティやプライバシー情報の保護に関する社内規程や研修教材の作成にあたって、僕は日本人が書いた本やウェブ・ページや論文なんて殆ど読んでいない。日本人が書いた文書を無視していても、約20年に渡って情報セキュリティマネジメント(2019年までは ISMS を認証されていた)や個人情報保護マネジメント(現在もプライバシーマークの使用許諾を受け続けている)において大過なく実務を遂行できているし、もちろん電通や博報堂やナショナル・クライアントを初めとする大手企業の実地監査や面談を受けたりアンケートに応じたりし続けていて、何か重大な問題を指摘されたこともない。
したがって、TOEIC のスコアが英会話のスキルに直結しないからといって、英語を役立てられるかどうかまで一概に言えるものではない。僕は TOEIC を受けたことはないが、オンラインのクイズみたいなものを何度か試したことはあって、だいたい800から880ていどのスコアだと評価されることが多い。スコアとしては高い方だと思うが、それでも仕事をしていて英語で相手と会話した経験はわずかだし、街頭で観光客などと会話した経験も少ない(あるいは、自分の方が観光客として香港やソウルで英語で会話したことも多少はあった)。おそらく英会話の経験としては非常に少ないし、そのスキルも低いとは思う。しかし、海外の技術者や企業とのやりとりは、チャットでの問い合わせだとかフォーラムへの投稿などで頻繁に英語でやっているし、さきほども説明したように仕事で扱う資料の殆どは英語の文書だ。ということなので、もし僕が TOEIC で400とか500くらいのスコアしか出せないような人間なら、そもそも仕事や学術研究で英語の文書を読むことすら覚束ないであろうと言えるていどにはテストのスコアとの関連性はあると思う。それでも、読み書きすることに比べれば、スコアは会話とは強い関連性が強くないというだけのことでしかない。TOEIC のスコアと英会話のスキルとは、正確に言えば「想像するほどには比例しない」と言うべきであって、全く比例しないわけでもなければ逆効果であるはずもないのだ。数学の簡単なグラフを思い起こしてもらえばいいと思うが、一次方程式のグラフで直線の傾きが大きいほど比例の度合いは「強い」と言えるなら、TOEIC のスコアと英会話のスキルとは、その比例の度合い、つまり傾きが小さいというだけなのである。
という注意点はあれ、やはり TOEIC のスコアが高いからといって、それだけで英会話がうまくできるわけでもないという事実はあろう。僕は幾つかの会社で、海外などの相手と英語で話している人々が同僚になったことがある。でも、そういう人たちは例外なく TOEIC を受験したことがない。そういう人たちにとって、英語は相手と話すのに必要だから覚えて使っているだけであり、試験のスコアによって英語を使うかどうかを決められるような立場になんて置かれていない人が多いからだ。しかし日本で TOEIC を受けている人の中には、TOEIC のスコアによって自分が英語で話したりものを読み書きする「資格があるかどうか」が決まるかのような錯覚に陥っている人もいる。日本で多くの人が英語で仕事ができなかったり、英会話できなかったりする一つの理由は、そういう思い込みや思い違いにあるのではないか。そして、僕は TOEIC のような試験に関わる多くの人たちが、自覚のあるなしにかかわらず、そういう錯覚を学習者に引き起こしている張本人ではないのかという疑問がある。つまり、日本人の多くが英語を(「生きる術」と言っては大袈裟だろうから、ともかく)生活のスキルとして身につけられない原因には、やはり英語に関わる教育や出版といった制度側の問題が大きいと思う。日本で英語ができるようになった人たちというのは、これも生存バイアスの事例だと思うが、いま程度の拙劣もしくはデタラメな英語教育や英会話指導ですら英語が使えるようになったほど、もともと有能な人たちだっただけなのではないかということだ。そして、YouTube で TOEIC のスコアを宣伝しつつ英会話の指導ビデオを配信している英会話学習系の YouTuber というのは、それこそ YouTuber として表に出られるていどの英会話ができるという自覚があるからこそ、そうやって YouTuber をしているわけなのであって、そういう人が YouTube というメディアに多いからといって、TOEIC でハイ・スコアを取る人が英会話もできるというわけではない。それは、統計的な関連性が弱いかもしれない事柄に強い関連性があるとか、それどころかケースによっては因果関係があると考えてしまうような誤解であったり、あるいはテストと英会話という双方で高いスキルをもつ人だけが結果的に集まっているようなメディアを利用しているせいで引き起こされる生存バイアスという錯覚にすぎない。
TOEIC のようなペーパー・テストに対応するスキルがいくら向上しても、それだけで英会話ができるようになるわけでもない。これは確かだ。なぜなら、ペーパー・テストで正解するという目的は、英語で自分の意図や感情を伝えるという目的とは違っているからだ。簡単な事例を挙げると、小学生の姉妹が一つの部屋で机を並べている状況を想像してもらいたい。妹が "Hey, gimme my hat."(「ねぇ、帽子取って。」)と言ったときに、姉が "No, I, Don't."(「い・や・よ!」) と返事したとする。こういう表現は現実のアメリカではごくふつうの言い方だし、映画やドラマでも観る人は多いはずだが、TOEIC の設問にこんな表現はたぶん出てこない。これは、単語を一つずつ区切ってゆっくりと発音することによって、本人の強い気分を表している。こういう表現方法が会話では色々と使われているし、会話はそもそも自分の感情とか意図を相手に向けることが動機や目的なのであって、相手に文法の添削をしてもらうことが目的ではないのだから、はっきり言えば文法として正しいかどうかなんて気にして会話する人なんていない。もちろん、だからといって、外国語教育の指導方法を大学で学んだこともない素人の自称英会話教師のように、「文法なんてどうでもいい」などと言うのは単なるアホである。本人がアメリカで会話しても、相手から未熟だと思われているだけにすぎない(ふだんから移民などと接している多くのアメリカ人は、いちいち相手の文法ミスなど指摘しない)。