Scribble at 2026-10-18 15:30:15 Last modified: 2026-10-18 15:31:49
僕がコリン・マッギンの認知クロージャ仮説を支持したり、あるいは有限性というコンセプトを重視している理由は、かなり単純である。それは、いまフランスで(そして日本の通俗的な哲学が大好きな読書ファンのあいだで)流行している「有限主義」が何であるかとは関係なく、そもそも合理主義だろうと経験主義だろうと、人がやることであるからには有限に他ならないし、有限である他にないからだ。
人の理性について、その理屈がどれだけ強力に神のような特性を定義したり与えていようと、その定義がいつ完全な仕方で完了するのかとか、その理性という名において少なくとも哲学的な問いがいつ解決するのかとか、そんなことは誰にも分からないし、誰にもできることではないからだ。そもそも、そのようにして書かれた出版物ですら永続的な媒体ではないし、僕らの議論している内容が何らかの仕方で伝達されたり共有されることで「あり続ける」と言えるにしても、それは僕らという一定の文化や文明をもつ生物種が存続しているからにすぎず、やがて宇宙の熱的な死と呼ばれる未来においては完全に意味を失う。
というか、何をやっていようと人類は遅かれ早かれ滅亡するであろう。消えてなくなるのであれば、そこに永遠などないし、それを約束する究極の目的や理性を構想したり前提したところで、それは僕らの文化や個人的な意欲を駆り立てるための「馬の鼻先につるしたニンジン」でしかない。何らかの意味で「在る」としても届かないし、レースが終わったあとで吊るしたところから下して、人類への褒美として食べさせてくれる「神」などいないことを、僕ら哲学者は基本的な素養として知っているはずだ。