Scribble at 2024-04-04 11:44:07 Last modified: 2024-04-04 20:26:15

よく、大学の初年度用に出版されている数学のテキストで、序文やはしがきなどに「高校数学と大学の数学とを橋渡しする」などと執筆あるいは出版の趣旨が書かれていたりする。これはこれで意図としては分かる。なにせ、高校までの数学というのは、その大半が定理などを使って問題を「解く」という操作に力点が置かれているため、どうしても定理を暗記したり、いわゆる解法と呼ばれるテクニックを予備校などで教わったり、あるいは「数学的センス」などという頓智まがいの発想が尊ばれたりする、或る意味では学問としての数学からみて対極的とも言いうる事務作業やオカルトの世界になってしまっているからだ。したがって、こういう事務作業の得意な東大暗記小僧の諸君が有利となるか、あるいは謎のひらめきをもつ発達障害の諸君が有利となるため、要するに「数学ができる」かできないかは、端的に言ってガチャとしか言いようがないところで決まってしまうかのような錯覚を多くの若者に引き起こす。

もちろん、これは全くのデタラメである。そもそも東大暗記小僧の中でも生え抜きの無能が集まる「掃き溜め」と呼ばれる文科省で作られている学習指導要綱などに沿った数学教育などは、口先で彼らが言うほど平等で各人の個性を尊重するようなものではなく、現実には彼らが設定した能力の基準をクリアした者のあいだでだけ平等が確保されるという古代ギリシアの議会みたいなものでしかない(そもそも歴史的に言って、「民主主義」の「民」に奴隷や女性は入っていない)。そのようなわけで、もちろん数学科に入ってくる学生諸君にとっては有用なテキストも多いし、松阪和夫氏などを始めとして「名著」を残す人々も多いのは知っているけれど、しょせん「できる人にとっての名著」であることも弁えなくてはいけないと思う。

ただ、僕のように数学が苦手だった者が数学について書くという場合に、とりわけそれを商業的な出版物として販売しようという人には、やたらと「分からなかった自分が分かるようになった」という成功体験を強調しており、その「分かる」ということについての反省がまるでないという致命的な欠陥を無視する人が多い。それゆえ、教師になったヤンキーだとか上場企業の社長になった中卒のゴロツキだとかが書く、臆面もない結果論や精神論の本と同じように、他人から敬して遠ざけられ鑑賞されるだけの存在にしかなれないわけである。でも、僕は数学が苦手であるとか難しくてよく分からないという感想を持つ人々の「分からなさ」について、いまだによく分かっていない自分なりにしつこくポイントを洗い出すことによって、他人が真似のしようがないサクセス・ストーリーのように数学を理解するといったお伽噺でもなければ、最初から分かっていたくせに努力だの熱意だのと空語を繰り返す数学者や予備校講師の通俗本でもない、可能な限り分からない人に最適化した解説を書きたいと思っている。

そのときに重要なのは、僕自身がそうであるように、数学が分からないということと、論理的にものを考えられないということは別であるという事実である。なぜなら、僕がこれまで読んできた、教科書や参考書も含めた数学の概論やテキストから分かったこととして、分かりにくい数学の本に共通しているのは、著者が物事を論理的に考えておらず、また物事を記述したり説明する技能が本を書こうとするような社会人なり大人のレベルに達していないと言えるからだ。要するに、数学者こそが全く論理的な思考ができておらず、論理的に物事を説明する技能を欠いているのであって、そういうクズみたいな教科書や参考書を偽物の権威として読まされる者が理解に苦しむのは、リンゴから手を話すとリンゴが地上へ落下するのと同じくらい「自然」な話なのである。僕は、権威主義者であるからこそ、そういう偽者の権威をいつまでも有難がる文科省や出版社には強い憤りを覚える。

そもそも、高校の数学と大学の数学とに「ギャップ」があると言われている理由なんてわかりきっている。それはロジックを基礎にした定理の導出だとか応用を解説したり証明する大学の数学に対して、高校ではそれらの定理を所与として利用した計算という、いわば考え方の基礎を説明せずに定理という成果物だけを扱うテクニックの話に終止しているからだ(高校の参考書にも証明は書いてあるぞと反論したくなるかもしれないが、それは計算として証明できる種類の定理に限られる。だから、証明すること自体が入学試験問題になれるのだ)。およそ、昔から大学の理数科の教員が工学科の教員を「理論的でない」などと言って蔑む傾向にあるのも、工学では理学部の成果である定理を使って「たしざん、ひきざん」をやっているにすぎないという偏見があるからで、それがそのまま高校の指導要綱や大学のシラバスに反映されているだけのことなのだ。でも、高校だろうと大学だろうと、あるいは社会人だろうと、数学を理解したいとか扱えるようになりたいと望んでいる人々にとって、工学よりも数学の方が偉いのなんのといった自意識の話なんてどうだっていいのであり、学者どうしでそんな内ゲバをやっている暇がありながら、この数十年に渡って高校と大学の「ギャップ」を解消しようとしてこなかった怠慢について、数学者はどう考えるのかという気がしている。

当サイトで掲載している論説は、数学のプロパーにやる気がない、あるいはやる能力がないなら、代わりに科学哲学者がやってやろうじゃないかというだけのことなのだ。これは傲慢さの現れというよりも、寧ろ僕は怒っているのである。

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