Scribble at 2024-05-23 17:21:24 Last modified: 2024-05-23 18:10:15
起業とか自己啓発の本で「哲学的な」ファウンダーが語られることはあって、要するに経営者として当然ながら行動力はあるのだが、それだけではなく思慮深いところがあるという事例になっている。たとえばスティーヴ・ジョブズもそういう一人として語られることがあろう。
僕は、これはそもそも逆が真だからこそ、そうなっているのだと言いたい。つまり、哲学者こそ今でいう entrepreneur なのだ。既存の学問の分野、理系だの文系だのというしょーもない区別にとらわれず、自分が知りたいとか考えたいと思ったことに何でも首を突っ込んでゆく。「博士号をもってない素人」などと言われても気にしないし、そもそも自分が考えたいことや知りたいことを、博士号をもっている人々が論じておらず教えてもくれないからこそ、自分でやらなくてはいけないと感じる。いま、弊社の顧問である山川恭弘氏の『バブソン大学で教えている世界一のアントレプレナーシップ』(講談社、2024)という本を読みながら、ふとそういうことを感じる。
僕がアメリカの科学哲学に惹かれるのは、何も彼らが論理学や物理学の格好いい数式を扱っているからではなく、その貪欲さというかアグレッシヴさゆえである。確かデイヴィッドソンの翻訳書に帯のコメントとして誰かが書いていたフレーズだが、アメリカの哲学者の成果の出し方には、ブルドーザーで押し潰していくような力強さがある。これは、或る意味では「ロジックで押していく」という説得力や explanatory power でもあるし、別の意味では一つのテーマに関心が高まると全国の研究者が集中して取り組み、さながらイナゴのようにカンファレンスに集まって議論を交わし、supplement や anthology を出して「片付ける」といった風情で次々と論点を広げたり深化させてゆく姿にも現れている。これは、もちろんアメリカのフォーディズムなどの影響もあろうから、一概に研究プロセスやスタンスとして良し悪しを言いたいわけではない。でも、こういっておきながら大学院時代に2本しか論文を書かなかった身としては恥ずかしいことだが、僕の性に合うスタイルだと思えた。なので、大学院生だった当時の僕が好んで読んでいたのは、Analysis や The Journal of Philosophy のような月刊で発行されている雑誌であった。5ページにも満たない論説が続々と繰り出されてくる。そして、一つ一つが日本の権威ある学術誌、つまり『理想』や『現代思想』や『思想』や『哲学』などという、気取った体裁はしているものの、学問を殆ど進展させない、語学秀才どもの読書感想文集みたいなものに比べたら、圧倒される思いがした。これは、いまからすると、ベンチャー起業が次々と立ち上がってくる様子を見ているのに似ている。
そもそも、philosophy というのは、既存の学問分野では思考の外にあるようなことを開拓する activity であって、実は学問分野というものではない。そんな制度化された、上げ膳据え膳の方法とか手法とか手順なんてものがない、あるいはそれを適用していいかどうかなんて分からないようなものを対象にしている知的活動のことなのである。したがって、「フィロ(知ることを)ソフィー(愛する)」という活動とかスタンスを指しているにすぎず、東京大学文学部のだれそれ研究室で教わるだの、『センスの哲学』などといった通俗本に書かれているだのという、まことに下らない条件や前提でやるものではないのだ。だからこそ、つねづね書いているように大学で学ぶものだとか、あるいは逆に波止場や森の中でやるものだ、などという自意識に取り憑かれた人々には、結局のところそれをやる資格がないと言っているわけである。
なお、山川氏の著書には探検家のシャクルトンが出したとされる募集広告が紹介されていて、これを哲学に当てはめると、VOLUNTARY ENGAGEMENT in a hazardous journey. Small wages, bitter cold of vagueness in meaning, long years of complete darkness with a few method, assumption, and grounds, constant danger by own stupidity, safe return will never be expected. No honor and recognition even in case of success. --- KAWAMOTO Takayuki といった感じになるだろう。