Scribble at 2020-10-28 19:15:20 Last modified: 2020-10-28 22:39:06

本日は出社日であった。往来を歩いていると、相変わらず堂島でもスマートフォンの画面を眺めるついでに前方を確認しながら歩いているような《生体部品》が数多く確認できる。もう少し正確に言えば(皮肉もあるが)、《ビジネス・モデルの部品》と言うべきだろう。このようなシニカルな表現に腹を立てるナイーブな若者はいるかもしれないが、これは僕のような人間だけのセリフではない。かつて、Facebook というオンライン・サービスが商品なのではなく、ユーザであるあなたが Facebook という企業の商品なのだと言った人もいたくらいだ。

それはともかく、かような歩く無礼者なんて交通事故にでも巻き込まれて《文化淘汰》されればいいのにと思わなくもないが、実際にはこのような思考は自分自身の価値観や自分自身を例外とする究極のファシズムを前提にしない限りは自己破壊的な結論に至る。なぜなら、この程度の価値観で他人が死ねばいいと思うなら、他の誰かは「哲学者なんて役に立たないから死ねばいいのに」と思っているかもしれないし、「ネットベンチャーの部長なんて」「会社の最高技術者なんて」「自分が有能だと思ってる人間なんて」と、幾らでも他人を自分の《セカイ》から放逐する理由を生み出せるし、実際にたいがいの人間はそういう自分勝手な価値観をもっているものだ。しかし、これまたたいていの人間は、本当にそれを成就させるべく口に出したり、自ら手を挙げて他人を殺すほどの気概もないので、幸か不幸か人の社会は維持されてきているのである。つまり、些末で自分勝手な理由によって他人に死ねと願うような価値観を総計し、神でもデーモン小暮でもなんでもいいが、人を超越した存在が実際に該当者を殺していくとすると、結局のところこの宇宙に生き残る人間など一人もいなくなるのである。

このような思考が教えるのは、やはり一言にすると「情けは人の為ならず」ということになろうか。他人に厳しすぎると自分に返ってくるということかもしれないが、僕は他人をここで散々なくらいに扱き下ろしているものの、別にこの宇宙からいなくなればいいとは思っていないし、僕と家族に不利益が生じない限りはどうでもいいと思っている。もちろん、そういう人々でも税金を払っていたりインフラ企業で働いていたり公務員だったりするので、僕の生活と無関係ではないだろうが、価値観としては勝手に生きて、勝手に死ねばいいというだけのことでしかない。

ただ、スマートフォンを眺めながらボサッと歩いている連中は、僕の歩行にとって端的に言えば邪魔なので不利益の原因にはなっているわけだが、高校生や大学生などは、逆にこちらが少子化時代の貴重なお子様に道を譲らないことが気に食わないといった態度を見せるものだから始末に負えない。言っておくが、いくら少子化だろうとカスが生き残ったところで(人類の存続とか叡智の発展という点では)意味などない。むろん、哲学者として言えば、それが人類の最高の目的である保証などないし、宇宙という現象全体にとって人類の存続や価値など何の意味もないことだが(なぜなら宇宙、つまり宇宙が《ある》ことに意味などないからだ)、だからといって現時点でのわれわれ自身がもっている価値観を軽視してよいわけがない。それができるのは或る種のテロリストだけだ。

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