Scribble at 2023-12-07 11:32:10 Last modified: unmodified

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Browsing the Eastern Side of the Personal Web

この記事で説明されているように、日本人が制作し公開している個人サイトというのは、あまり運営者のパーソナリティには力点を置かないで、扱っている話題とか素材の方に力点が置かれていること多い。よって、オタクやマニアが手掛けているウェブサイトでは、パソコンであれエロゲーであれ科学哲学であれ下水道の蓋であれ、それらに関心を持つ自分自身の興味とか動機とか熱意については大して分からない。どちらかと言えば、そのコンテンツの分量とか詳しさで当人の熱の入れ方を推し量らないといけないというところがある。

得てしてオタクが蘊蓄合戦を繰り広げたり、レアな写真を撮って掲載することに固執して鉄道会社に迷惑をかけたりする的外れな努力を始めたりするのも、他人に自分の興味を知ってもらって正当化する手段が情報量や詳しさといった物量しかないという錯覚があるからなのだろう。だから、やたらと何千冊を長野県の別荘に保管している自称思想家とか、ミニ・カーを自宅で何万個も集めてる経済評論家とか、ともかく物量だけがマニアであるかどうか、そして「優れた」マニアであるかどうかの指標になってしまっている。でも、海外でもそうした収集癖のある人は多いけれど、或るものに愛着をもっているとか、或ることのマニアであるとか、あるいは特定に何かに造詣が深いという場合、物量に比例して評価しているわけではない。Zippo のライターを10個しか持っていなくても、それぞれのライターについて他人に語ることが多い人は、それだけでも Zippo のことならあいつに聞けということになる。何も自宅に数千個のライターを持っていなくてもいいのだ。でも、日本だと物量としてどれだけ集めてるかがオタク業界でのヘゲモニーを掌握する基準みたいなものになってしまっていて、個々のアイテムについてはさほど関心も愛着もないというだけの収集家ていどがご意見番みたいになったりするのが、僕には異常に思えるんだよね。だから、この記事では日本と海外でのそれぞれの特徴だと相対化してはいるけれど、僕はやはり日本の評価の基準というのはおかしいと思う。要するに、借金してまでものを買い集めたり、あるいはお母様からのお小遣いで買い揃えたらいいだけという金の話に集約されてしまうし、他人との比較や他人からみた評価という自意識の問題になってしまう。僕は、それはたいへん不健全なことだと思うんだよね。アメリカ人とかから見たら奇妙で関心をもつような傾向なんだろうけど。

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