Scribble at 2024-03-22 19:33:15 Last modified: 2024-03-22 19:53:43

山畑古墳群が、もともと100基以上の古墳で構成されていたという記述を見かけることがある。しかし、たいていの著作物では、そう書いている理由を明快に書いておらず、殆ど根拠のない伝聞とか希望的観測とかではないかという気がしていた。もししっかりした理由があるなら知りたいところだが、たとえば Gemini に質問すると、東大阪市や近つ飛鳥資料館が地磁気を使った測定をしたとか、かなりいいかげんなことを聞かされる。そして、証拠を教えてくれと言っても URL は出さないし、何年の文書に掲載されているのかも知らないという。

おそらく、「100基以上」のもとになったのは『河内四条史 第一冊 本編』(1981)の67ページで紹介されている、大正年間の新聞記事からの抜粋と言われる文章なのだろう。そこには、当時は「天王山」と呼ばれた四条町の山麓に昔は百余箇所あったという、誰から聞いたのかも分からない伝聞だか想像だかが書かれている。要するに、根拠となる大正時代の新聞記事そのものが証拠のない伝聞なのである。これでは、考古学や歴史学として何事かを語る以前の問題である。やはり、僕がいま制作している山畑古墳群のサイトでは、このような記述は無視することにしたい。

ちなみに、この箇所では新聞からの引用に続いて「市立郷土博物館付近は古くは河原山と呼ばれていた」などと意味不明なことを書いているが、引用している文章に書かれているのは河原山ではなく「天王山」であって、確かに瓢箪山神社から東に十丁(約1キロメートル)行くと、山畑古墳群の分布域になる。こういう点についても、いささか『河内四条史』の記述には疑問の余地がある。他にも、縄手遺跡から偶然に発掘された「猪の木古墳」(現在は「えのき塚古墳」と呼ぶ)について、墳丘部が後世に破壊されたという事実を説明しつつ、最後に山畑古墳群を造営した氏族が破壊したなどと書いているが、これも弱い根拠しかないのに断定するのはどうかと思う。

ということなので、やはり考古学の研究の基本は発掘調査報告書を読み込んだり、あるいは自分の手で掘るということにつきるわけだけど、実は発掘調査報告書を書いている人物の力量によっては、そういう報告書を制作するにあたって『河内四条史』のような取扱い注意の著作物を無批判に利用していたりするから困るのだ。そうすると、いま述べたように調査報告書を読むことが基本だなどと迂闊に大学で教えてるような人がいて、学生が調査報告書を鵜呑みにしてしまうと、今度は彼らがプロパーとなっていい加減なことを専門書や学術論文にしれっと書き始めてしまい、そしてそれを読んだ役人などが地元の郷土史について文書を書くときに使ってしまうという悪循環なりエコー・チェインバーが起きる。そうやって、凡人の、凡人による、凡人のための研究というものが積み重なってしまうということもあるのだ。

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